・・・渠は編み物の手袋を嵌めたる左の手にぶら提灯を携えたり。片手は老人を導きつつ。 伯父さんと謂われたる老人は、ぐらつく足を蹈み占めながら、「なに、だいじょうぶだ。あれんばかしの酒にたべ酔ってたまるものかい。ときにもう何時だろう」 夜・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・そして、好きな裁縫や編み物のような、静かな手芸に飽きることを知らないような娘であった。そろそろ女の洋服がはやって来て、女学校通いの娘たちが靴だ帽子だと新規な風俗をめずらしがるころには、末子も紺地の上着に襟のところだけ紫の刺繍のしてある質素な・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・おせんは編物ばかりでなく、手工に関したことは何でも好きな女で、刺繍なぞも好くしたが、終にはそんな細い仕事にまぎれてこの部屋で日を送っていたことを考えた。 悲しい幕が開けて行った。大塚さんはその刺繍台の側に、許し難い、若い二人を見つけた。・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・会場へ、見に来いと、あなたにも、但馬さんにも、あれほど強く言われましたけれど、私は、全身震えながら、お部屋で編物ばかりしていました。あなたの、あの画が、二十枚も、三十枚も、ずらりと並んで、それを大勢の人たちが、眺めている有様を、想像してさえ・・・ 太宰治 「きりぎりす」
・・・もと銀座の同じバアにつとめていて、いまは神田のダンスホオルで働いている友人がひとり在って、そのひとの四谷のアパアトに、さちよはころがりこみ、編物をしたり、洗濯をしたり、食事の手伝いをしてやったり、毎日そんなことで日を送っていた。べつに、あわ・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・売り手のじいさんやばあさんも長い煙管を吹かしたり編み物をしているのでありました。ひやかしていると、「ドクトルの旦那さん、降誕祭贈物はいかがです」と呼びかけるのもありました。町の店屋へ買い物に行くと、お前さんの故国でもワイナハトを祝うかなぞと・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・ 編物をしながら、上の娘の佐和子が、「計算て何なの」と訊いた。彼女は結婚して親たちとは別に暮していたから、この別荘に来たのもそれが二度目であった。「いいえね、理論の上からではここの水は半馬力の発動機できっと上る筈だと云うんだ・・・ 宮本百合子 「海浜一日」
・・・そこで、婦人たちは、先より上手に絨毯を織るように、編物をするようになったばかりではない。生産が社会主義的にやられれば、勤労者に得だという事実を学んだのだ。 一九二六年に、ソヴェト同盟内の各民族の男女がどの割合で読書きを知っていたか。これ・・・ 宮本百合子 「五ヵ年計画とソヴェト同盟の文化的飛躍」
切角お尋ねを受けましたが、私は何も手芸を存じません。編物や刺繍の或る物はひとのしている様子、出来上り等見るのを愛しますけれども。 非常に不器用で困ります。〔一九二二年八月〕・・・ 宮本百合子 「手芸について」
・・・た小さい小鳥のブローチや花などをところどころにつけたビクトリア時代の流行のキャップ ○老猫のような髭 ○蒼っぽい目 ○指環のくいこんだ、皺のある太い節の高い指 ○エプロン ○いつも編物 水色と藤紫の調和というこのみ・・・ 宮本百合子 「一九二五年より一九二七年一月まで」
出典:青空文庫