・・・、次の茶の間を通り抜けた縁側の隅の下駄箱へ蔵うと、着ていた秩父銘撰の半纏を袖畳みにして、今一間茶の間と並んだ座敷の箪笥の上へ置いて、同じ秩父銘撰の着物の半襟のかかったのに、引ッかけに結んだ黒繻子の帯の弛み心地なのを、両手でキュウと緊め直しな・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・しかし速力が緩み、風の唸りが消え、なだらかに橇が止まる頃には、それが空耳だったという疑惑が立罩める。「どうだったい」 晴ばれとした少年の顔からは、彼女はいずれとも決めかねた。「もう一度」 少女は確かめたいばかりに、また汗を流・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・ ところが晩成先生は、多年の勤苦が酬いられて前途の平坦光明が望見せらるるようになった気の弛みのためか、あるいは少し度の過ぎた勉学のためか何か知らぬが気の毒にも不明の病気に襲われた。その頃は世間に神経衰弱という病名が甫めて知られ出した時分・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・ただ胸が不快にごとごと鳴って、全身のネジが弛み、どうしても気取ることが出来ないのである。次々と、山海の珍味が出て来るのであるが、私は胸が一ぱいで、食べることができない。何も食べずに、酒ばかり呑んだ。がぶ、がぶ呑んだのである。雨のため、部屋の・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・ところが十三回十四回頃からロスの身体の構えに何となく緩みが見え、そうして二人が腕と腕を搦み合っているときにどうもロスの方が相手に凭れかかっていたがるような気配が感ぜられたので、これは少しどうもロスの方が弱ったのではないかと思って見ていた。・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
・・・ 上げたときと同じにしておこうと思っても、きっと幾度かは殆ど不可抗力に近い重みをもって垂れそうになって来る通りに、彼女のちっとも緩みのない心、休息を与えられることのない心は、ときどき息が詰りそうな陰鬱を伴って沈んで来る。 何の音もし・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・寸刻の緩みもなく、この上ない努力をしつづける彼の心に対しても、よくあるべきはずの結果は、時はずれの長雨でめちゃめちゃにされた。 稲の大半は青立ちになってしまったのである。 どうしても負けてもらわなければ仕方がなくなった禰宜様宮田は、・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・そのとき長十郎の心のうちには、非常な難所を通って往き着かなくてはならぬ所へ往き着いたような、力の弛みと心の落着きとが満ちあふれて、そのほかのことは何も意識に上らず、備後畳の上に涙のこぼれるのも知らなかった。 長十郎はまだ弱輩で何一つきわ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫