・・・ 手拭いに包んだハムの片が、支那兵の家に到る途中に落ちると、支那兵は、一時に、三人もころげるようにとび出してきて、嬉しげに罵りながらそれを拾った。今度は彼等がボロ切れに包んだものを出して見せた。「酒が行くぞ!」向うから叫んだ。「・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・今日は市立つ日とて、秤を腰に算盤を懐にしたる人々のそこここに行きかい、糸繭の売買に声かしましく罵り叫く。文化文政の頃に成りたる風土記稿にしるせる如く、今も昔の定めを更えで二七の日をば用いるなるべし。昼餉を終えたれど暑さ烈しければ、二時過ぐる・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・されば兀ちょろ爺と罵りたるはわざとになるべく、蹙足爺とはいつまでも起き出でぬ故なるべし。男は罵られても激しくは怒らず、かえって茶にした風にて、「やかましいやい、ほんとに酒はどうしたんでエ。「こうしてから飲むがいいサ。と突然に夜具・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・この夫婦は既に述べたとおり、手荒なことはもちろん、口汚く罵り合った事さえないすこぶるおとなしい一組ではあるが、しかし、それだけまた一触即発の危険におののいているところもあった。両方が無言で、相手の悪さの証拠固めをしているような危険、一枚の札・・・ 太宰治 「桜桃」
・・・くような、歔欷なさるような苦しげの声で言い出したので、弟子たちすべて、のけぞらんばかりに驚き、一斉に席を蹴って立ち、あの人のまわりに集っておのおの、主よ、私のことですか、主よ、それは私のことですかと、罵り騒ぎ、あの人は死ぬる人のように幽かに・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・この世の中のひとりでも不幸な人のいる限り、自分も幸福にはなれないと思う事こそ、本当の人間らしい感情でしょうに、自分だけ、あるいは自分の家だけの束の間の安楽を得るために、隣人を罵り、あざむき、押し倒し、まるでもう地獄の亡者がつかみ合いの喧嘩を・・・ 太宰治 「貨幣」
・・・之をもどかしがり、或いは怠惰と罵り、或いは卑俗と嘲笑するひともあるかも知れないが、しかし、後世に於いて、私たちのこの時代の思潮を探るに当り、所謂「歴史家」の書よりも、私たちのいつも書いているような一個人の片々たる生活描写のほうが、たよりにな・・・ 太宰治 「苦悩の年鑑」
・・・そのとき諸君は夕焼を、不健康、頽廃、などの暴言で罵り嘲うことが、できるであろうか。できるとも、と言下に答えて腕まくり、一歩まえに進み出た壮士ふうの男は、この世の大馬鹿野郎である。君みたいな馬鹿がいるから、いよいよ世の中が住みにくくなるのだ。・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・がを私に押しつけ、娘は何か面白くない事があると、すぐ腰が痛いとか何とか言って寝て、そうして婆と娘は、ろくでもない男にかかわり合ったから、こんな、とりかえしのつかないからだになってしまった、と口々に私を罵り、そうして私にやたらと用事を言いつけ・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・また、その日の黄昏時、おなじ島の南にあたる尾野間という村の沖に、たくさんの帆をつけた船が、小舟を一隻引きながら、東さしてはしって行くのを、村の人たちが発見し、海岸へ集って罵りさわいだが、漸く沖合いのうすぐらくなるにつれ、帆影は闇の中へ消えた・・・ 太宰治 「地球図」
出典:青空文庫