・・・また或人申しけるは、容顔美麗なる白拍子を、百人めして、――「御坊様。」 今は疑うべき心も失せて、御坊様、と呼びつつ、紫玉が暗中を透して、声する方に、縋るように寄ると思うと、「燈を消せ。」 と、蕭びたが力ある声して言った。・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
瑠璃色に澄んだ中空の樹の間から、竜が円い口を張開いたような、釣鐘の影の裡で、密と、美麗な婦の――人妻の――写真を視た時に、樹島は血が冷えるように悚然とした。…… 山の根から湧いて流るる、ちょろちょろ水が、ちょうどここで・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・――活版刷りの美麗な辞令だった。 そして、待機していると、世間は広いものだ。一生妻子を養うことが出来れば、六百円の保証金も安いものだと胸算用してか、大阪、京都、神戸をはじめ、東は水戸から西は鹿児島まで、ざっと三十人ばかりの申し込みがあっ・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・ まもなく車が来て田浦は帰り、続いて大森も美麗な宿車で威勢よく出て行った。 午後四時半ごろになって大森は外から帰って来たが室にはいるや、その五尺六寸という長身を座敷のまん中にごろりと横たえて、大の字になってしばらく天井を見つめていた・・・ 国木田独歩 「疲労」
・・・わたくしは桜花の種類の多きが中に就いて其の樹姿の人工的に美麗なるを以て、垂糸桜を推して第一とする。 谷中天王寺は明治七年以後東京市の墓地となった事は説くに及ぶまい。墓地本道の左右に繁茂していた古松老杉も今は大方枯死し、桜樹も亦古人の詩賦・・・ 永井荷風 「上野」
・・・弱きを滅す強き者の下賤にして無礼野蛮なる事を証明すると共に、滅される弱き者のいかほど上品で美麗であるかを証明するのみである。自己を下賤醜悪にしてまで存在を続けて行く必要が何処にあろう。潔よく落花の雪となって消るに如くはない。何に限らず正当な・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ しかし自分の画版はあまりに狭く自分の目の前にひろがっている世界はあまりに荘重美麗である。自分はただ断片的なる感想を断片的に記述する事を以て足れりとせねばならぬ。 われわれ過渡期の芸術家が一度びこの霊廟の内部に進入って感ずるのは、玉・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・其那に朗らかとも美麗とも思ったことはなかったのだが、ああやって台所から聞くと、何か一種可憐な趣があった。誰の胸の奥にでも必ずぽっちりはある感傷癖を誘い出すように聞えるのだ。 まして彼は生れつき其傾向を多分に持ち合わせていた。彼はメランコ・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・ 見ると、稍々灰色を帯びた二つの瞳は大して美麗ではないが、いかにもむくむくした体つきが何とも云えず愛らしい。頭、耳がやはり波を打ったチョコレート色の毛で被われ、鼻柱にかけて、白とぶちになって居る。今に大きくなり、性質も悠暢として居そ・・・ 宮本百合子 「犬のはじまり」
・・・文学としてのギリシャ神話は宇宙の壮大と美麗と威力とへの関心を当時の都市の形成を反映している神とその人間ぽい生活感情で形象していて面白い。イギリスの十九世紀初頭の詩人画家であったウィリアム・ブレークが、独特な水色や紅の彩色で森厳に描いた人格化・・・ 宮本百合子 「科学の常識のため」
出典:青空文庫