・・・と同時に大きな蠅が一匹、どこからここへ紛れこんだか、鈍い羽音を立てながら、ぼんやり頬杖をついた陳のまわりに、不規則な円を描き始めた。………… 鎌倉。 陳彩の家の客間にも、レエスの窓掛けを垂れた窓の内には、晩夏の日の暮が近づいて来・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ただその沈黙が擾されるのは、寺の鳩が軒へ帰るらしい、中空の羽音よりほかはなかった。薔薇の匂、砂の湿り、――一切は翼のある天使たちが、「人の女子の美しきを見て、」妻を求めに降って来た、古代の日の暮のように平和だった。「やはり十字架の御威光・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・同時にまた静かに群がっていた鳩は夥しい羽音を立てながら、大まわりに中ぞらへ舞い上った。それから――それからは未曾有の激戦である。硝煙は見る見る山をなし、敵の砲弾は雨のように彼等のまわりへ爆発した。しかし味かたは勇敢にじりじり敵陣へ肉薄した。・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・と云う声が、無数の蠅の羽音のように、四方から新蔵の耳を襲って来ました。その拍子に障子の外の竪川へ、誰とも知れず身を投げた、けたたましい水音が、宵闇を破って聞えたそうです。これに荒胆を挫がれた新蔵は、もう五分とその場に居たたまれず、捨台辞を残・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・そして鉛色の野の果てからは、腐肥をあさる卑しい鳥の羽音が聞こえてくる。この時人が精力を搾って忘れようと勉めた二つの道は、まざまざと眼前に現われて、救いの道はただこの二つぞと、悪夢のごとく強く重く人の胸を圧するのである。六 人・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・が、すぐ、それさえも茫となる。 その目に、ひらりと影が見えた。真向うに、矗立した壁面と、相接するその階段へ、上から、黒く落ちて、鳥影のように映った。が、羽音はしないで、すぐその影に薄りと色が染まって、婦の裾になり、白い蝙蝠ほどの足袋が出・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ 人、馬、時々飛々に数えるほどで、自動車の音は高く立ちながら、鳴く音はもとより、ともすると、驚いて飛ぶ鳥の羽音が聞こえた。 一二軒、また二三軒。山吹、さつきが、淡い紅に、薄い黄に、その背戸、垣根に咲くのが、森の中の夜があけかかるよう・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ 御存じの通り、稲塚、稲田、粟黍の実る時は、平家の大軍を走らした水鳥ほどの羽音を立てて、畷行き、畔行くものを驚かす、夥多しい群団をなす。鳴子も引板も、半ば――これがための備だと思う。むかしのもの語にも、年月の経る間には、おなじ背戸に、孫も彦・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・ 月青く、山黒く、白きものあり、空を飛びて、傍の枝に羽音を留めつ。葉を吹く風の音につれて、「ツウチャン、ツウチャン、ツウチャン。」 と二たび三たび、谺を返して、琵琶はしきりに名を呼べり。琵琶はしきりに名を呼べり。明治二十九年・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・線香の煙の中へ、色を淡く分けてスッと蝋燭の香が立つと、かあかあと堪らなそうに鳴立てる。羽音もきこえて、声の若いのは、仔烏らしい。「……お食り。」 それも供養になると聞く。ここにも一羽、とおなじような色の外套に、洋傘を抱いて、ぬいだ中・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
出典:青空文庫