・・・徐ろに患者を毒殺しようとした医者、養子夫婦の家に放火した老婆、妹の資産を奪おうとした弁護士、――それ等の人々の家を見ることは僕にはいつも人生の中に地獄を見ることに異らなかった。「この町には気違いが一人いますね」「Hちゃんでしょう。あ・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・檜皮色の着物を着た、背の低い、痩せた、白髪頭の、猿のような老婆である。その老婆は、右の手に火をともした松の木片を持って、その死骸の一つの顔を覗きこむように眺めていた。髪の毛の長い所を見ると、多分女の死骸であろう。 下人は、六分の恐怖と四・・・ 芥川竜之介 「羅生門」
・・・ 珍客に驚きて、お通はあれと身を退きしが、事の余りに滑稽なるにぞ、老婆も叱言いう遑なく、同時に吻々と吹き出しける。 蝦蟇法師はあやまりて、歓心を購えりとや思いけむ、悦気満面に満ち溢れて、うな、うな、と笑いつつ、頻りにものを言い懸けた・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・四尺にも足りないちいさな老婆がその灯を持ってとぼとぼやって来るようだ。カラコロと下駄の音が聴える。出会いがしらにふっと顔を覗かれる、あっ、老婆の顔は白い粉を吹いたように真っ白で、眼も鼻も口もない……。 すべてはその道に原因していたんだと・・・ 織田作之助 「道」
一 季節は冬至に間もなかった。堯の窓からは、地盤の低い家々の庭や門辺に立っている木々の葉が、一日ごと剥がれてゆく様が見えた。 ごんごん胡麻は老婆の蓬髪のようになってしまい、霜に美しく灼けた桜の最後の葉が・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・彼等は、扉口に立っている老婆を突き倒して屋内へ押し入ってきた。武器の捜索を命じられているのだった。「こいつ鉄砲をかくしとるだろう。」「剣を出せ!」「あなぐらを見せろ!」「畜生! これゃ、また、早く逃げておく方がいいかもしれん・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
「冬」が訪ねて来た。 私が待受けて居たのは正直に言うと、もっと光沢のない、単調な眠そうな、貧しそうに震えた、醜く皺枯れた老婆であった。私は自分の側に来たものの顔をつくづくと眺めて、まるで自分の先入主となった物の考え方や自・・・ 島崎藤村 「三人の訪問者」
・・・昔の束髪連なぞが蒼い顔をして、光沢も失くなって、まるで老婆然とした容子を見ると、他事でも腹が立つ。そういう気象だ。「お互いに未だ三十代じゃないか――僕なぞはこれからだ」と相川は心に繰返していた。 二人は並んで黙って歩いた。 やや暫時・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・「人間のうちで、一ばんロマンチックな種属は老人である、ということがわかったの。老婆は、だめ。おじいさんで無くちゃ、だめ。おじいさんが、こう、縁側にじっとして坐っていると、もう、それだけで、ロマンチックじゃないの。素晴らしいわ。」「老人か・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・僕の以前の店子であったビイル会社の技師の白い頭髪を短く角刈にした老婆の顔にそっくりであったのである。 十月、十一月、十二月、僕はこの三月間は青扇のもとへ行かない。青扇もまたもちろん僕のところへは来ないのだ。ただいちど、銭湯屋で一緒になっ・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
出典:青空文庫