・・・わたくしは千住の大橋をわたり、西北に連る長堤を行くこと二里あまり、南足立郡沼田村にある六阿弥陀第二番の恵明寺に至ろうとする途中、休茶屋の老婆が来年は春になっても荒川の桜はもう見られませんよと言って、悵然として人に語っているのを聞いた。 ・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・――そんな得意談はどうでも善いとして、この国の女ことに婆さんとくると、いわゆる老婆親切と云う訳かも知れんが、自分の使う英語に頼みもせぬ註解を加えたり、この字は分りますかなどという事がたくさんある。この間さる処へ呼ばれてそこの奥さんと談しをし・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・梶がもと味噌汁をくはぬ娘の夏書かな鮓つけてやがて去にたる魚屋かな褌に団扇さしたる亭主かな青梅に眉あつめたる美人かな旅芝居穂麦がもとの鏡立て身に入むや亡妻の櫛を閨に蹈む門前の老婆子薪貪る野分かな栗そなふ恵心の作・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ 七十と七十六になった老婆は、暫く黙って、秋日に照る松叢を見ていた。 沢や婆が帰る時、植村の婆さんは、五十銭やった。「其辺さ俺も出て見べ」 二人は並んで半町ばかり歩いた。〔一九二六年六月〕・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・―― 気の毒な老婆は、降誕祭の朝でも、彼女の返事を一つで止めにすることは出来なかった。その上、はずみが悪いと云うのは全くああ云うのであろう。 彼は、今朝妻が平常より言葉少く確に沈んで見えるのに気が付いていた。彼は自分の不快の為に彼女・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・の情緒の奔流と、その流れを物語っている肉体の強い表情とを感じとり受け入れたにちがいない。さもなくて、どうして「音楽に聴き入る囚人たち」のこのような内心のむき出されている恍惚の顔つき肩つき、「歎願者」の老婆の、あの哀訴にみちた瞳の光りが描けた・・・ 宮本百合子 「ケーテ・コルヴィッツの画業」
・・・シュミット・ボンの『老婆』というのをともかくお送りしますから、そのうしろのカタログ中から選んでいただいたら、手に入るものもあろうと思います。『現代ドイツ短篇集』は幸いありました。こちらへとって置きましょう。南山堂も郁文堂もモクロクは出してい・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・スーザンが、大理石にむかってニューヨークの街に溢れる群集の中からニグロの女をとらえて彫り、北国の老婆をとらえて彫って、尨大な独特なものをつくってゆくとき、ブレークは、軽い土の塑像を、才走って、奇矯にこしらえてゆく。 スーザンが仕事に規則・・・ 宮本百合子 「『この心の誇り』」
・・・すると、戸口へ盲目の見馴れぬ汚い老婆がひとり素足で立っていた。彼女は手にタワシを下げてしきりに彼に頭を下げながら哀願した。「私は七十にもなりまして、連れ合いも七十で死んで了いまして、息子も一人居りましたが死んで了いました。乞食をしますと・・・ 横光利一 「街の底」
・・・ 私はこんな空想にふけりながら、ぼんやり乳飲み児を見おろしている母親の姿をながめ、甘えるらしく自分により掛かってくる女の子を何か小声で言いなだめているらしい、老婆の姿をながめ、見るともなく正面を見つめている老爺の悲しむ力をさえ失ったよう・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫