・・・ 以上は、かの芸術家と、いやらしく老獪な検事との一問一答の内容でありますが、ただ、これだけでは私も諸君も不満であります。「いいえ、私は、どちらも生きてくれ、と念じていました。」という一言を信じて、検事は、この男を無罪放免という事にした様・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・「君は、老獪なだけなんだ。」 言い合っていると際限が無かった。私は、小さい食堂を前方に見つけて、「はいろう。あそこで、ゆっくり話そう。」興奮して蒼ざめ、ぶるぶる震えている熊本君の片腕をつかんで、とっとと歩き出した。佐伯も私たちの後か・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・私のそんな親切なもてなしも、内実は、犬に対する愛情からではなく、犬に対する先天的な憎悪と恐怖から発した老獪な駈け引きにすぎないのであるが、けれども私のおかげで、このポチは、毛並もととのい、どうやら一人まえの男の犬に成長することを得たのではな・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・けれども、この表面は蜜のように甘い私の言葉の裏には、悪辣老獪の下心が秘められていたのである。私は、そう言ってどろぼうを安心させることに依って受ける私のいろいろの利益を計算していたのである。だいいちには、どろぼうをそんなに安心させて置けば、ど・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・まれにかかってもたいていは思慮のない小ねずみで、老獪な親ねずみになるとなかなかどの仕掛けにもだまされない。いくらねずみでも時代と共に知恵が進んで来るのを、いつまでも同じ旧式の捕鼠器でとろうとするのがいけないのでないかという気もする。 そ・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
・・・自分が何を欲しているか、それをはっきり知ることこそ大切であると思う。老獪な支配者達が私達の心に残っている旧い考え方を足場としてまた再び彼等の横暴を返り咲かせないように、私達は生きることこそ欲しておれ、彼等のために侮辱的な毎日をひきずって行く・・・ 宮本百合子 「青年の生きる道」
・・・英国のあらゆる国家的、個人的美徳、老獪、権謀がこの煤けた八本の大柱列内部で週給六十四シリング以下三四十シリングの男女行員達のペンにより簡単明瞭なる「借」「貸」に帰納されつつある。背後に「東端」がひろがり始めていようとも英蘭銀行の正面は広大だ・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
・・・「彼は『新生』の主人公ほど老獪な偽善者に出逢ったことはなかった」。藤村はそれを取り上げて、「私があの『新生』で書こうとしたことも、その自分の意図も、おそらく芥川君には読んでもらえなかったろう」と嘆いている。 ところで私もまた、『新生』が・・・ 和辻哲郎 「藤村の個性」
出典:青空文庫