・・・ そういうやさしい声が僕の耳許でした。お母さんの声を聞くと僕の体はあたたかになる。僕は眼をぱっちり開いて嬉しくって、思わず臥がえりをうって声のする方に向いた。そこにお母さんがちゃんと着がえをして、頭を綺麗に結って、にこにことして僕を見詰・・・ 有島武郎 「碁石を呑んだ八っちゃん」
・・・ しかり、窈窕たるものであった。 中にも慎ましげに、可憐に、床しく、最惜らしく見えたのは、汽車の動くままに、玉の緒の揺るるよ、と思う、微な元結のゆらめきである。 耳許も清らかに、玉を伸べた頸許の綺麗さ。うらすく紅の且つ媚かしさ。・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・「真黒な円い天窓を露出でな、耳元を離した処へ、その赤合羽の袖を鯱子張らせる形に、大な肱を、ト鍵形に曲げて、柄の短い赤い旗を飜々と見せて、しゃんと構えて、ずんずん通る。…… 旗は真赤に宙を煽つ。 まさかとは思う……ことにその言った・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・――漆にちらめく雪の蒔絵の指さきの沈むまで、黒く房りした髪を、耳許清く引詰めて櫛巻に結っていた。年紀は二十五六である。すぐに、手拭を帯に挟んで――岸からすぐに俯向くには、手を差伸しても、流は低い。石段が出来ている。苔も草も露を引いて皆青い。・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・進んだ時も夢中であったんやが、さがる時も一生懸命――敵に見付かったらという怖さに、たッた独りぽッちの背中に各種の大砲小銃が四方八方からねらいを向けとる様な気がして、ひどう神経過敏になった耳元で、僕の手足が這うとる音がした。のぼせ切っておった・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・とお光が耳元で訊ねると、病人はわずかに頷く。 で、水を含ますと、半死の新造は皺涸れた細い声をして、「お光……」と呼んだ。「はい」と答えて、お光はまず涙を拭いてから、ランプを片手に自分の顔を差し寄せて、「私はここにいますよ、ね、分りま・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・と耳の端で囁けば、片々の耳元でも懐しい面「もう見えぬもう見えぬもう見えぬ」「見えん筈じゃ、此様な処に居るじゃもの、」 と声高に云う声が何処か其処らで…… ぶるぶるとしてハッと気が付くと、隊の伍長のヤーコウレフが黒眼勝の柔しい眼で・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・ところが間もなく、旦那はうめえなアと耳元で大声に叫んだ奴がある。 びっくりして振り向くと六十ばかりの老爺が腰を屈めて僕の肩越しにのぞき込んでいるんだ。僕はあまりのことに、何だびっくりしたじゃアないかと怒鳴ってやッた。渠一向平気で、背負っ・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・音信の絶えてない折々は河岸の内儀へお頼みでござりますと月始めに魚一尾がそれとなく報酬の花鳥使まいらせ候の韻を蹈んできっときっとの呼出状今方貸小袖を温習かけた奥の小座敷へ俊雄を引き入れまだ笑ったばかりの耳元へ旦那のお来臨と二十銭銀貨に忠義を売・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・中畑さんは、平気でにこにこ笑い、ちょっと列から離れかけたので私は、いよいよ狼狽して、顔が耳元まで熱くなって逃げてしまった。他の兵隊さんの笑い声も聞えた。 その、呼びかけられた二つの記憶を、私は、いつまでも大事にしまって置きたいと思ってい・・・ 太宰治 「帰去来」
出典:青空文庫