・・・玄関まで彼を送って行き、いよいよわかれる時に、彼は私の耳元で烈しく、こう囁いた。「威張るな!」 太宰治 「親友交歓」
・・・そんな、いやな言葉を耳元に囁かれたような気がして、わくわくしてまいりました。ひょっとしたら、この吹出物も――と考え、一時に総毛立つ思いで、あの人の優しさ、自信の無さも、そんなところから起って来ているのではないのかしら、まさか。私は、そのとき・・・ 太宰治 「皮膚と心」
・・・という嗄れた声を、耳元に囁かれ、愕然として振り向くと、ああ、王子の髪は逆立ちました。全身に冷水を浴びせられた気持でした。老婆が、魔法使いの老婆が、すぐ背後に、ひっそり立っていたのです。「何しに来た!」王子は勇気の故ではなく、あまりの恐怖・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・そんなことから考えると、鴉がすぐ耳元で歌っている歌に合わせて頸を曲げるぐらいは何でもないことかもしれない。 とにかく、これに関してはやはり『野鳥』の読者の中に知識を求めるのが一番の捷径であろうと思われるので厚顔しくも本誌の余白を汚した次・・・ 寺田寅彦 「鴉と唱歌」
・・・船にいくじがなくて、胸に込み上げる不快の感覚をわずかにおさえつけて少時の眠りを求めようとしている耳元に、かの劣悪なレコードの発する奇怪な音響と騒がしい旋律とはかなりに迷惑なものの一つである。それが食堂で夜ふけまで長時間続いていた傍若無人の高・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
・・・ と耳許で云った。おどろいて私が顔をあげると、それが同級生の林茂だった。彼は黙って私の桶や天秤棒をなおしてくれ、それからくるりと奥さんの方へむきなおると、「小母さん、すみません」 と云ってお辞儀した。林は口数の少ない子だから、そ・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・枯しが、短い冬の日のあわただしく暮れると共に、ぱったり吹きやんで、寒い夜が一層寒く、一層静になったように思われる時、つけたばかりの燈火の下に、独り夕餉の箸を取上げる途端、コーンとはっきり最初の一撞きが耳元にきこえてくる時である。驚いて箸を持・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・突然耳元ちかく女の声がしたので、その方を見ると、長命寺の門前にある掛茶屋のおかみさんが軒下の床几に置いた煙草盆などを片づけているのである。土間があって、家の内の座敷にはもうランプがついている。 友達がおかみさんを呼んで、一杯いただきたい・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・身も魂もこれ限り消えて失せよと念ずる耳元に、何者かからからと笑う声して夢は醒めたり。醒めたるあとにもなお耳を襲う声はありて、今聞ける君が笑も、宵の名残かと骨を撼がす」と落ち付かぬ眼を長き睫の裏に隠してランスロットの気色を窺う。七十五度の闘技・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・勘助は、黙って考えていたが、はっきり勇吉の耳元で叫んだ。「なる程、おらわるかった。折角おめえこの家焼きてえちゅうに止めだてしてわるかった。おらもじゃあ手伝ってくれべえよ」 勘助も粗朶火を手に持った。そして、消防の方に何だか合図し、穏・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
出典:青空文庫