良平はある雑誌社に校正の朱筆を握っている。しかしそれは本意ではない。彼は少しの暇さえあれば、翻訳のマルクスを耽読している。あるいは太い指の先に一本のバットを楽しみながら、薄暗いロシアを夢みている。百合の話もそう云う時にふと・・・ 芥川竜之介 「百合」
・・・ それは三、四年前に、マローの『ファウスト』とかスペンサーの或る作とかを頻りに耽読していられた事から見ても解るであろう。 内田魯庵 「温情の裕かな夏目さん」
・・・一行、一句にも心を捕えられ、恍惚として、耽読せしむるものは、即ち知己であり、その著者と向志を同じくするがためです。眼だけは、文字の上に止っても、頭で他のことを空想するように、感ずる興味の乏しいものは、その書物と読む者の間が、畢竟、無関係に置・・・ 小川未明 「書を愛して書を持たず」
・・・いままで、二十数年間、何もせずに無用の物語本ばかり耽読していた結果であろう。私は自身の、謂わば骨の髄にまで滲み込んでいるロマンチシズムを、ある程度まで、save しなければならぬ。すべて、ものの限度を、知らなければいけない。多少、凡骨に化す・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・ わたくしは少年の時、貸本屋の本を耽読した。貸本屋が笈の如くに積み畳ねた本を背負って歩く時代の事である。その本は読本、書本、人情本の三種を主としていた。読本は京伝、馬琴の諸作、人情本は春水、金水の諸作の類で、書本は今謂う講釈種である。そ・・・ 森鴎外 「細木香以」
・・・ Saint-Simon のような人の書いた物を耽読しているとか、Marx の資本論を訳したとかいうので社会主義者にせられたり、Bakunin, Kropotkin を紹介したというので、無政府主義者にせられたとしても、読むもの訳するも・・・ 森鴎外 「沈黙の塔」
出典:青空文庫