・・・高い土手の上に子守の小娘が二人と職人体の男が一人、無言で見物しているばかり、あたりには人影がない。前夜の雨がカラリとあがって、若草若葉の野は光り輝いている。 六人の一人は巡査、一人は医者、三人は人夫、そして中折れ帽をかぶって二子の羽織を・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・ 大工は名を藤吉と申しましたが、やはり江戸の職人という気風がどこまでもついて廻わり、様子がいなせで弁舌が爽やかで至極面白い男でございました。ただ容貌はあまり立派ではございません、鼻の丸い額の狭いなどはことに目につきました。笑う時はどこか・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・それもその道理で、夫は今でこそ若崎先生、とか何とか云われているものの、本は云わば職人で、その職人だった頃には一通りでは無い貧苦と戦ってきた幾年の間を浮世とやり合って、よく搦手を守りおおさせたいわゆるオカミサンであったのであるし、それに元来が・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・貧しい職人体の男も居る。中には茫然と眺め入って、どうしてその日の夕飯にありつこうと案じ煩うような落魄した人間も居る。樹と樹との間には、花園の眺めが面白く展けて、流行を追う人々の洋傘なぞが動揺する日の光の中に輝く光影も見える。 二人は鬱蒼・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・この鬱金香の花はわたしが縫取をして、それを職人にしたてさせたのよ。わたし鬱金香が大嫌いさ。だけれどあの人はなんにでも鬱金香を付けなくちゃあ気が済まないのだもの。(乙、目を雑誌より放し、嘲弄の色を帯びて相手を見る。甲、両手を上沓に嵌・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・と私は、店へはいって来た三人連れの職人ふうのお客に向って笑いかけ、それから小声で、「おばさん、すみません。エプロンを貸して下さいな」「や、美人を雇いやがった。こいつあ、凄い」 と客のひとりが言いました。「誘惑しないで下さいよ」と・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・『職人ふぜい。』と噛んで吐き出し、『水呑百姓。』と嗤いののしり、そうして、刺し殺される日を待って居る。かさねて言う、私は労働者と農民とのちからを信じて居る。私は派手な衣服を着る。私は甲高い口調で話す。私は独り離れて居る。射撃し易くしてやって・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・池につないでおくと、たぶん職人か土方だろうが、よくいたずらをして困るので、ああして引き上げておくのである。ナンキン錠をいくらつけ換えても、すぐ打ちこわされるので、根気負けがしたのである。無論土方か職人のしわざに相違ない。 池の周囲の磁力・・・ 寺田寅彦 「池」
・・・残念ながらわが国の書店やデパート書籍部に並んでいるあの職人仕立ての児童用絵本などとは到底比較にも何もならないほど芸術味の豊富なデザインを示したものがいろいろあって、子供ばかりかむしろおとなの好事家を喜ばすに充分なものが多数にあった。その中に・・・ 寺田寅彦 「火事教育」
・・・「――いえさ、おれのような職人だったんだが、マルクスと一緒にドイツ革命に参加したり、哲学書をかいたり、非常にえらい人だったそうだ」 母親は、それで見当がついた風で、「すると、やっぱりシャカイシュギかい?」 などという。――・・・ 徳永直 「白い道」
出典:青空文庫