・・・高瀬は頬冠り、尻端折りで、股引も穿いていない。それに素足だ。柵の外を行く人はクスクス笑って通った。とは言え高瀬は関わず働き始めた。掘起した土の中からは、どうかすると可憐な穎割葉が李の種について出て来る。彼は地から直接に身体へ伝わる言い難い快・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・間もなくこちらを背にして、道について斜に折れると思うと、その男はもはや、ただ大きな松葉の塊へ股引の足が二本下ったばかりのものとなって動いている。松葉の色がみるみる黒くなる。それが蜜柑畑の向うへはいってしまうと、しばらく近くには行くものの影が・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・見ると、木戸にいる時と同様、紺の股引にジャケツという風采であった。「なには? あの、店のほうは?」私は気がかりになったので尋ねた。「ちょっといま、休ませて来ました。」ドンジャンの鐘太鼓も聞えず、物売りの声と参詣人の下駄の足音だけが風・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・それは股引に就いてでありました。紺の木綿のピッチリした長股引を、芝居の鳶の者が、はいているようですけれど、あれを欲しいと思いました。ひょっとこめ、と言って、ぱっと裾をさばいて、くるりと尻をまくる。あのときに紺の股引が眼にしみるほど引き立ちま・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
・・・ 着物は何処かの小使のお古らしい小倉の上衣に、渋色染の股引は囚徒のかと思われる。一体に無口らしいが通りがかりの漁師などが声をかけて行くと、オーと重い濁った返事をする。貧苦に沈んだ暗い声ではなくて勢いのある猛獣の吼声のようである。いつも恐・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・の一巻をとって読んでみても鳶の羽も刷いぬはつしぐれ 一ふき風の木の葉しずまる股引の朝からぬるる川こえて たぬきをおどす篠張の弓のような各場面から始まってうき人を枳殻籬よりくぐらせん 今や別・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・古いそして小さすぎて胸の合わぬ小倉の洋服に、腰から下は股引脚絆で、素足に草鞋をはいている。古い冬の中折れを眉深に着ているが、頭はきれいに剃った坊主らしい。「きょうも松魚が捕れたのう」と羅宇屋が話しかける。桶屋は「捕れたかい、・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・ 頃合をはかって、善ニョムさんは寝床の上へ、ソロソロ起きあがると、股引を穿き、野良着のシャツを着て、それから手拭でしっかり頬冠りした。「これでよし、よし……」 野良着をつけると、善ニョムさんの身体はシャンとして来た。ゆるんだタガ・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・頭を綺麗に剃り小紋の羽織に小紋の小袖の裾を端折り、紺地羽二重の股引、白足袋に雪駄をはき、襟の合せ目をゆるやかに、ふくらました懐から大きな紙入の端を見せた着物の着こなし、現代にはもう何処へ行っても容易には見られない風采である。歌舞伎芝居の楽屋・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・着物の裾をからげて浅葱の股引をはき、筒袖の絆纏に、手甲をかけ、履物は草鞋をはかず草履か雪駄かをはいていた。道具を入れた笊を肩先から巾広の真田の紐で、小脇に提げ、デーイデーイと押し出すような太い声。それをば曇った日の暮方ちかい頃なぞに聞くと、・・・ 永井荷風 「巷の声」
出典:青空文庫