・・・半纏股引の職人である。「まア、どうぞ御免なすって……。」と銀杏返は顔を真赤に腰をかがめて会釈しようとすると、電車の動揺でまたよろけ掛ける。「ああ、こわい。」「おかけなさい。姉さん。」 薄髯の二重廻が殊勝らしく席を譲った。・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・圭さんも碌さんも、白地の浴衣に、白の股引に、足袋と脚絆だけを紺にして、濡れた薄をがさつかせて行く。腰から下はどぶ鼠のように染まった。腰から上といえども、降る雨に誘われて着く、よなを、一面に浴びたから、ほとんど下水へ落ち込んだと同様の始末であ・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・浅黄の股引を穿いて、浅黄の袖無しを着ている。足袋だけが黄色い。何だか皮で作った足袋のように見えた。 爺さんが真直に柳の下まで来た。柳の下に子供が三四人いた。爺さんは笑いながら腰から浅黄の手拭を出した。それを肝心綯のように細長く綯った。そ・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・みんな急いで黒い股引をはいて一生けん命宙をかけめぐります。兄貴の烏も弟をかばう暇がなく、恋人同志もたびたびひどくぶっつかり合います。 いや、ちがいました。 そうじゃありません。 月が出たのです。青いひしげた二十日の月が、東の山か・・・ 宮沢賢治 「烏の北斗七星」
・・・まっくろなびろうどのマントを着て、まっくろなびろうどの股引をはいて居ります。 大烏は二人を見て立ちどまって丁寧にお辞儀しました。「いや、今日は。チュンセ童子とポウセ童子。よく晴れて結構ですな。しかしどうも晴れると咽喉が乾いていけませ・・・ 宮沢賢治 「双子の星」
・・・火気からはなれることないその仕事で、早くから白いちぢみのシャツ一枚に、魚屋のはいていたような白い短い股引をきる職人たちは、鉢巻なんかして右、左、右、左、と「せんべい焼」道具をひっくりかえしてゆくとき、あぐらをかいて坐っている上体をひどくゆす・・・ 宮本百合子 「菊人形」
・・・ 現代のソヴェトに於て筋肉たくましい二百人の青年が、スポーツ・シャツと股引といういでたちで、徒に台の上に並んで腕組みをしたまま、勝手に跳ねる石油や石炭を傍観しているというような情景は、全く観客の共感をよびおこさない。むしろ腹立たしく思わ・・・ 宮本百合子 「ソヴェトの芝居」
・・・亀蔵はその時茶の弁慶縞の木綿綿入を着て、木綿帯を締め、藍の股引を穿いて、脚絆を当てていた。懐中には一両持っていた。 亀蔵は二十二日に高野領清水村の又兵衛と云うものの家に泊って、翌二十三日も雨が降ったので滞留した。そして二十四日に高野山に・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・女で印袢纏に三尺帯を締めて、股引を穿かずにいるものもある。口々に口説というものを歌って、「えとさっさ」と囃す。好いとさの訛であろう。石田は暫く見ていて帰った。 雛は日にまし大きくなる。初のうち油断なく庇っていた親鳥も、大きくなるに連れて・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・七 安次は股引の紐を結びながら裏口へ出て来ると、水溜の傍の台石に腰を下ろした。彼は遠い物音を聞くように少し首を延ばして、癖ついた幽かな笑いを脣に浮かべながら水菜畑を眺めていた。数羽の鶏の群れが藁小屋を廻って、梨の木の下から一・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫