・・・過去の世界で育ち過去の思想で固まった年寄りの自分らが、新しい世界を歩き、新しい思想に慣れるまでの難儀さ迷惑さはどのくらい大きいものか、若い人には想像するさえむつかしいであろうと思われる。 二 草市 七月十三日の夕方哲・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・私は海辺に育ちましたから浪を見るのが大好きですよ。海が荒れると、見にくるのが楽しみです」「あすこが大阪かね」私は左手の漂渺とした水霧の果てに、虫のように簇ってみえる微かな明りを指しながら言った。「ちがいますがな。大阪はもっともっと先・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・竹の皮を別にして包んだ蓮根の煮附と、刻み鯣とに、少々甘すぎるほど砂糖の入れられていたのも、わたくしには下町育ちの人の好む味いのように思われて、一層うれしい心持がしたのである。わたくしはジャズ模倣の踊をする踊子の楽屋で、三社祭の強飯の馳走に与・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・いかに豆腐屋育ちだって、あんまりだ」「裏へ出て、冷水浴をしていたら、かみさんが着物を持って来てくれた。乾いてるよ。ただ鼠色になってるばかりだ」「乾いてるなら、取り寄せてやろう」と碌さんは、勢よく、手をぽんぽん敲く。台所の方で返事があ・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・よくせきの場合だから細君が虚栄心を折って、田舎育ちの山出し女とまで成り下がって、何年の間か苦心の末、身に釣り合わぬ借金を奇麗に返したのは立派な心がけで立派な行動であるからして、もしモーパッサン氏に一点の道義的同情があるならば、少くともこの細・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・元来こうした性癖の発芽は、子供の時の我がまま育ちにあるのだと思う。僕は比較的良家の生れ、子供の時に甘やかされて育った為に、他人との社交について、自己を抑制することができないのである。その上僕の風変りな性格が、小学生時代から仲間の子供とちがっ・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・結局洪積紀は地形図の百四十米の線以下という大体の見当も附けてあとは先生が云ったように木の育ち工合や何かを参照して決めた。ぼくは土性の調査よりも地質の方が面白い。土性の方ならただ土をしらべてその場所を地図の上にその色で取っていくだけなのだが地・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・境遇が同じだというだけで友情は育ち得ないとおり、趣味の対象が同じだからというだけでは友情に至らないのである。 年齢やその他の生活事情で、友情と恋愛との区別が互の感情の中でつき難いということも、現実にはしばしばあることにちがいない。それは・・・ 宮本百合子 「異性の間の友情」
・・・初めはちょうど軒下に生まれた犬の子にふびんを掛けるように町内の人たちがお恵みくださいますので、近所じゅうの走り使いなどをいたして、飢え凍えもせずに、育ちました。次第に大きくなりまして職を捜しますにも、なるたけ二人が離れないようにいたして、い・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
・・・その一年あまりの間、都会育ちの先生が、立ち居も不自由なほどの神経痛になやみながら、生まれて初めての山村の生活の日々を、「ちょうど目がさめると起きるような気持ちで」送られた。その記録がここにある。それはいわば最近二十年の間の日本の動乱期がその・・・ 和辻哲郎 「歌集『涌井』を読む」
出典:青空文庫