・・・すぐにこの女の子を送り返すか、それともおれの言いつけに背くか――」 婆さんはちょいとためらったようです。が、忽ち勇気をとり直すと、片手にナイフを握りながら、片手に妙子の襟髪を掴んで、ずるずる手もとへ引き寄せました。「この阿魔め。まだ・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・宗門の内証に背くものとして、呵責を加うる事数日なり。されどわれ、わが眼にて見、わが耳にて聞きたるこの悪魔「るしへる」を如何にかして疑う可き。悪魔また性善なり。断じて一切諸悪の根本にあらず。 ああ、汝、提宇子、すでに悪魔の何たるを知らず、・・・ 芥川竜之介 「るしへる」
・・・そして、有妻の男子が他の女と通ずる事を罪悪とし、背倫の行為とし、唾棄すべき事として秋毫寛すなき従来の道徳を、無理であり、苛酷であり、自然に背くものと感じ、本来男女の関係は全く自由なものであるという原始的事実に論拠して、従来の道徳に何処までも・・・ 石川啄木 「性急な思想」
・・・ 突俯して、(ただ仰向であった―― で、背くぐみに両膝を抱いて、動悸を圧え、潰された蜘蛛のごとくビルジングの壁際に踞んだ処は、やすものの、探偵小説の挿画に似て、われながら、浅ましく、情ない。「南無、身延様――三百六十三段。南・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・と、格子の方へくるりと背く。 紙屋は黙って、ふいと離れて、すぐ軒ならびの隣家の柱へ、腕で目をおさえるように、帽子ぐるみ附着いた。 何の真似やら、おなじような、あたまから羽織を引かぶった若い衆が、溝を伝うて、二人、三人、胡乱々々する。・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・と勤めたるを、老夫は残酷にも引き放ちて、「あれ!」と背くる耳に口、「どうだ、解ったか。なんでも、少しでもおまえが失望の苦痛をよけいに思い知るようにする。そのうち巡査のことをちっとでも忘れると、それ今夜のように人の婚礼を見せびらかした・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・「だれの目にも仕合せだと思うに、それをいわれもなく、両親の意に背くような、そんな我儘はさせられないよ」「させられないたって、おッ母さんしようがないよ」「佐介、ばかいいをするな、おまえなどまでもそんな事いうようだから、こんな事にも・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 一、世々の道に背くことなし。 二、万ず依怙の心なし。 三、身に楽をたくまず。 四、一生の間欲心なし。 五、我事に於て後悔せず。 六、善悪につき他を妬まず。 七、何の道にも別を悲まず。 八、自他ともに恨みかこ・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・えらい見方をして人事に対するのが写生文家だと云う意義に解釈されては余の本旨に背く。えらい、えらくないは問題外である。ただ彼らの態度がこうだと云うまでに過ぎぬ。 この故に写生文家は自己の心的行動を叙する際にもやはり同一の筆法を用いる。彼ら・・・ 夏目漱石 「写生文」
・・・心騒しく眼恐しく云々、如何にも上流の人間にあるまじき事にして、必ずしも女の道に違うのみならず、男の道にも背くものなり。心気粗暴、眼光恐ろしく、動もすれば人に向て怒を発し、言語粗野にして能く罵り、人の上に立たんとして人を恨み又嫉み、自から誇り・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
出典:青空文庫