・・・――そういう往年の豪傑ぶりは、黒い背広に縞のズボンという、当世流行のなりはしていても、どこかにありありと残っている。「飯沼! 君の囲い者じゃないか?」 藤井は額越しに相手を見ると、にやりと酔った人の微笑を洩らした。「そうかも知れ・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・と、すぐに背広の腰を擡げた。 慎太郎は父や義兄と一しょに、博士に来診の礼を述べた。が、その間も失望の色が彼自身の顔には歴々と現れている事を意識していた。「どうか博士もまた二三日中に、もう一度御診察を願いたいもので、――」 戸沢は・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・半之丞はこの金を握るが早いか、腕時計を買ったり、背広を拵えたり、「青ペン」のお松と「お」の字町へ行ったり、たちまち豪奢を極め出しました。「青ペン」と言うのは亜鉛屋根に青ペンキを塗った達磨茶屋です。当時は今ほど東京風にならず、軒には糸瓜なども・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・薄地セルの華奢な背広を着た太った姿が、血みどろになって倒れて居るのを、二人の水夫が茫然立って見て居た。 私の心にはイフヒムが急に拡大して考えられた。どんな大活動が演ぜられるかと待ち設けた私の期待は、背負投げを喰わされた気味であったが、き・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・く呼んだ、その時は先生奮然たる態度で、のぼせるほどな日に、蒼白い顔も、もう酔ったようにかッと勢づいて、この日向で、かれこれ燗の出来ているらしい、ペイパの乾いた壜、膚触りも暖そうな二合詰を買って、これを背広の腋へ抱えるがごとくにして席へ戻る、・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・色紙、短冊でも並びそうな、おさらいや場末の寄席気分とは、さすが品の違った座をすすめてくれたが、裾模様、背広連が、多くその席を占めて、切髪の後室も二人ばかり、白襟で控えて、金泥、銀地の舞扇まで開いている。 われら式、……いや、もうここで結・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・画工 (枠張のまま、絹地の画を、やけに紐からげにして、薄汚れたる背広の背に負い、初冬、枯野の夕日影にて、あかあかと且つ寂……落第々々、大落第。(ぶらつく体を杖に突掛くる状、疲切ったる樵夫畜生、状を見やがれ。声に驚き、且つ活け・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・ 店先へ立ち迎えて見ると、客は察しに違わぬ金之助で、今日は紺の縞羅紗の背広に筵織りのズボン、鳥打帽子を片手に、お光の請ずるまま座敷へ通ったが、後見送った若衆の為さんは、忌々しそうに舌打ち一つ、手拭肩にプイと銭湯へ出て行くのであった。・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・の亭主がまかり間違っても白いダブルの背広に赤いネクタイ、胸に青いハンカチ、そしてリーゼント型に髪をわけたような男でないことをしきりに祈りながら、赤い煉瓦づくりの自安寺の裏門を出ると、何とそこは「いろは牛肉店」の横丁であった。「市丸」という小・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・左翼くずれの同盟記者で大阪の同人雑誌にも関係している海老原という文学青年だったが、白い背広に蝶ネクタイというきちんとした服装は崩したことはなく、「ダイス」のマダムをねらっているらしかった。 私を見ると、顎を上げて黙礼し、「しんみりや・・・ 織田作之助 「世相」
出典:青空文庫