・・・出口の近くで太い首を持った背広服の肩が私の前へ立った。私はそれが音楽好きで名高い侯爵だということをすぐ知った。そしてその服地の匂いが私の寂寥を打ったとき、何事だろう、その威厳に充ちた姿はたちまち萎縮してあえなくその場に仆れてしまった。私は私・・・ 梶井基次郎 「器楽的幻覚」
・・・、私はこの種の「薄っぺら」よりは、まだしも獲得の本能にもとづく肉慾追求の青年をとるものだ。「銀ぶら」「喫茶店めぐり」、背広で行くダンス・ホール、ピクニック、――そうした場所で女友を拾い、女性の香気を僅かにすすって、深入りしようとも、結婚しよ・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・広瀬さんは背広に長い護謨靴ばきでその間を歩き廻った。素人ながらに、近海物と、そうでない魚とを見分けることの出来るお三輪は、今陸へ揚ったばかりのような黒く濃い斑紋のある鮎並、口の大きく鱗の細い鱸なぞを眺めるさえめずらしく思った。庖丁をとぐ音、・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・月給の中から黒い背広を新規に誂えて、降っても照ってもそれを着て学校へ通うことにした。しかし、その新調の背広を着て見ることすら、彼には初めてだ。「どうかして、一度、白足袋を穿いて見たい」 そんなことすら長い年月の間、非常な贅沢な願いの・・・ 島崎藤村 「足袋」
・・・ 私と末子とがしたくをしていると、次郎は朝から仕事着兼帯のような背広服で、自分で着かえる世話もなかったものだから、そこに足を投げ出しながらいろいろなことを言った。「おい、末ちゃんはそんな袴で行くのかい。」「そうよ。」 そう答・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・しかも、こんどのシャツには蝶々の翅のような大きい襟がついていて、その襟を、夏の開襟シャツの襟を背広の上衣の襟の外側に出してかぶせているのと、そっくり同じ様式で、着物の襟の外側にひっぱり出し、着物の襟に覆いかぶせているのです。なんだか、よだれ・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
・・・部屋の長押に、四十歳くらいの背広を着た紳士の写真がかけられていたのである。「どなたです。」まずい質問だったかな? と内心ひやひやしていた。「あら、」上の姉さんは、顔をあからめた。「きょうは、はずして置けばよかったのに。こんなおめでたい席・・・ 太宰治 「佳日」
・・・そうでなければ、ごくじみな背広姿がよい。色つきのワイシャツや赤いネクタイなど、この場合、極力避けなければならぬ。私のいま持っている衣服は、あのだぶだぶのズボンとそれから、鼠いろのジャンパーだけである。それっきりである。帽子さえ無い。私は、そ・・・ 太宰治 「花燭」
・・・ たいてい洋服で、それもスコッチの毛の摩れてなくなった鳶色の古背広、上にはおったインバネスも羊羹色に黄ばんで、右の手には犬の頭のすぐ取れる安ステッキをつき、柄にない海老茶色の風呂敷包みをかかえながら、左の手はポッケットに入れている。・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ 不思議なことには、このドイツ語で紹介された老子はもはや薄汚い唐人服を着たにがにがとこわい顔をした貧血老人ではなくて、さっぱりとした明るい色の背広に暖かそうなオーバーを着た童顔でブロンドのドイツ人である。どこかケーベルさんに似ている、と・・・ 寺田寅彦 「変った話」
出典:青空文庫