・・・そこで、彼は、今まで胸中に秘していた、最後の手段に訴える覚悟をした。最後の手段と云うのは、ほかでもない。修理を押込め隠居にして、板倉一族の中から養子をむかえようと云うのである。―― 何よりもまず、「家」である。当主は「家」の前に、犠牲に・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・良人たる者がこれを聞ける胸中いかん。この言をしてもし平生にあらしめば必ず一条の紛紜を惹き起こすに相違なきも、病者に対して看護の地位に立てる者はなんらのこともこれを不問に帰せざるべからず。しかもわが口よりして、あからさまに秘密ありて人に聞かし・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・ 尉官は直ちに頷きぬ。胸中予めこの算ありけむ、熱の極は冷となりて、ものいいもいと静に、「うむ、きっと節操を守らせるぞ。」 渠は唇頭に嘲笑したりき。 二 相本謙三郎はただ一人清川の書斎に在り。当所もなく・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・ 生活の革命……八人の児女を両肩に負うてる自分の生活の革命を考うる事となっては、胸中まず悲惨の気に閉塞されてしまう。 残余の財を取纏めて、一家の生命を筆硯に托そうかと考えて見た。汝は安心してその決行ができるかと問うて見る。自分の心は・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ 一事件を経る度に二人が胸中に湧いた恋の卵は層を増してくる。機に触れて交換する双方の意志は、直に互いの胸中にある例の卵に至大な養分を給与する。今日の日暮はたしかにその機であった。ぞっと身振いをするほど、著しき徴候を現したのである。しかし・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・省作の胸中は失意も憂愁もないのだけれど、周囲からやみ雲にそれがあるように取り扱われて、何となし世間と隔てられてしまった。それでわれ知らず日蔭者のように、七、八日奥座敷を出ずにいる。家の人たちも省作の心は判然とはわからないが、もう働いたらよか・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・しかして戦争いまだ終らざるに彼はすでに彼の胸中に故国恢復の策を蓄えました。すなわちデンマーク国の欧州大陸に連なる部分にして、その領土の大部分を占むるユトランドの荒漠を化してこれを沃饒の地となさんとの大計画を、彼はすでに彼の胸中に蓄えました。・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・私は坂田の胸中を想って暗然とした。同時に私はひそかにわが師とすがった坂田の自信がこんなに脆いものであったかと、だまされた想いにうろたえた。まるでもぬけの殻を掴まされたような気がし、私の青春もその対局の観戦記事が連載されていた一月限りのもので・・・ 織田作之助 「勝負師」
・・・私はこれをきき、そしていま、単身よく障碍を切り抜けて、折角名人位挑戦者になりながら、病身ゆえに惨敗した神田八段の胸中を想って、暗然とした。 東京の大阪に対する反感はかくの如きものであるか。しかし、私はこれはあくまで将棋界のみのこととして・・・ 織田作之助 「東京文壇に与う」
・・・ 五 その翌日より校長細川は出勤して平常の如く職務を執っていたが彼の胸中には生れ落ちて以来未だ経験したことのない、苦悩が燃えているのである。 もし富岡先生に罵しられたばかりなら彼は何とかして思切るほうに悶い・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
出典:青空文庫