・・・おとよも言いたいことが胸先につかえている。自分と省作との関係を一口に淫奔といわれるは実に口惜しい。さりとて両親の前に恋を語るような蓮葉はおとよには死ぬともできない。「おとッつさんのおっしゃるのは一々ごもっともで、重々わたしが悪うございま・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・何も置かずに床に入った、ところが、やがて昨晩と、殆んど同じくらいな刻限になると、今度は突然胸元が重苦しく圧されるようになったので、不図また眼を開けて見ると、再度吃驚したというのは、仰向きに寝ていた私の胸先に、着物も帯も昨夜見たと変らない女が・・・ 小山内薫 「女の膝」
・・・一枚の火の、丸形に櫓を裏んで飽き足らず、横に這うてひめがきの胸先にかかる。炎は尺を計って左へ左へと延びる。たまたま一陣の風吹いて、逆に舌先を払えば、左へ行くべき鋒を転じて上に向う。旋る風なれば後ろより不意を襲う事もある。順に撫でてを馳け抜け・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・云いたい事が胸先にグングンこみあげて来は来ても、一連りの言葉には、どうしてもまとまらなかった。 お金への手土産に、栄蔵は少しばかりの真綿と砂糖豆を出した。 こんなしみったれた土産をもらって、又お金は何と云うかと、お君は顔が赤くなる様・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
出典:青空文庫