・・・おかね婆さんは昔灸婆をしていたこともあり、弟子を掴まえてそんな風に執拗く灸をすすめるのも、月謝のほかに十銭、二十銭余分の金を灸代として取りたい胸算用だから……と、専らの評判をいつか丹造もきき知っていたのである。 その日、路地へ帰ると、丹・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・西鶴の「世間胸算用」の向うを張って、昭和二十年の大晦日のやりくり話を書こうと、威勢は良かったが、大晦日の闇市を歩いてその材料の一つや二つ拾って来ようと、まるで債鬼に追われるように原稿の催促にせき立てられた才能乏しい小説家の哀れな闇市見物だっ・・・ 織田作之助 「世相」
・・・一個八十銭の西瓜で十銭の切身何個と胸算用して、柳吉がハラハラすると、種吉は「切身で釣って、丸口で儲けるんや。損して得とれや」と言った。そして「ああ、西瓜や、西瓜や、うまい西瓜の大安売りや!」と派手な呼び声を出した。向い側の呼び声もなかなか負・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ 私は「世間胸算用」の現代語訳を試み、昨年は病中ながら「西鶴新論」という本を書いた。西鶴の読み方は、故山口剛氏の著書より多くを得た。都新聞の書評で私のこの書を酷評した人があるが、私はその人たちよりは西鶴を知っている積りである。西鶴とスタ・・・ 織田作之助 「わが文学修業」
・・・長火鉢に寄っかかッて胸算用に余念もなかった主人が驚いてこちらを向く暇もなく、広い土間を三歩ばかりに大股に歩いて、主人の鼻先に突ったッた男は年ごろ三十にはまだ二ツ三ツ足らざるべく、洋服、脚絆、草鞋の旅装で鳥打ち帽をかぶり、右の手に蝙蝠傘を携え・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・ 愛するというのも早ければ別れるのも軽く、少し待たせれば帰ってしまい、逢びきの間にも胸算用をし、たといだます分でもだまされはせぬ――こういった現代の娘気質のある側面は深く省みられねばならぬ。新しさ、聡明さとはそんなものではないはずだ。新・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・ 大隊長は、ポケットに這入っている俸給について胸算用をしていた。――それはつい、昨日受け取ったばかりなのであった。 イワンは、さきに急行している中隊に追いつくために、手綱をしゃくり、鞭を振りつづけた。橇は雪の上に二筋の平行した滑桁の・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・彼女は風呂敷に包んだ反物と蟇口の金とを胸算用で、丁度あるかどうかやってみるが頭がぐら/\して分らなくなる。…… 清吉は、こういう想像を走らせながら、こりゃ本当にあることかもしれないぞ、或は、今、現に妻がこうやっているかもしれない。と一方・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・そうしてこれを手始めに『諸国咄』『桜陰比事』『胸算用』『織留』とだんだんに読んで行くうちに、その独自な特色と思われるものがいよいよ明らかになるような気がするのであった。それから引続いて『五人女』『一代女』『一代男』次に『武道伝来記』『武家義・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
・・・ 尤も、非常な天災などの場合にそんな気楽な胸算用などをやる余裕があるものではないといわれるかもしれない。それはそうかもしれない。そうだとすれば、それはその市民に、本当の意味での活きた科学的常識が欠乏しているという事を示すものではあるまい・・・ 寺田寅彦 「流言蜚語」
出典:青空文庫