・・・国家ちょう問題が我々の脳裡に入ってくるのは、ただそれが我々の個人的利害に関係する時だけである。そうしてそれが過ぎてしまえば、ふたたび他人同志になるのである。 二 むろん思想上の事は、かならずしも特殊の接触、特殊の機会・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・いままで知らなかったさびしさを深く脳裏に彫りつけた。夫婦ふたりの手で七、八人の子どもをかかえ、僕が棹を取り妻が舵を取るという小さな舟で世渡りをするのだ。これで妻子が生命の大部分といった言葉の意味だけはわかるであろうが、かくのごとき境遇から起・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・此に於てか痛切に吾々の脳裡に『何処より何処へ行くか』という考えも起るのである。又『此の地上に生れ出でゝ果して何を為すがために生活するか』という様な問題も考えられるのである。そして終に、肉体と精神とを挙げて犠牲にするだけの偶像を何物にも見出し・・・ 小川未明 「絶望より生ずる文芸」
・・・黙って行方をくらませた女を恨みもせず、その当座女の面影を脳裡に描いて合掌したいくらいだった。……「――うちの禿げ婆のようなものも女だし、あの女のようなのもいるし、女もいろいろですよ」「で、その女がお定だったわけ……?」「三年後に・・・ 織田作之助 「世相」
・・・悲しい顔付をした母の顔が自分の脳裡にはっきり映った。 ――三年ほど前自分はある夜酒に酔って家へ帰ったことがあった。自分はまるで前後のわきまえをなくしていた。友達が連れて帰ってくれたのだったが、その友達の話によると随分非道かったということ・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・けれども、今の想像はなんだか彼の脳裏にこびりついてきた。 やがて、門の方で、ぱきぱきした下駄の音がした。「帰ったな。」と清吉は考えた。 彼は一刻も早く妻の顔を見たかった。彼女の顔色によって、丸文字屋でどんなことが起ったか分るから・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・ハクランカイをごらんなさればよろしいに、と南国訛りのナポレオン君が、ゆうべにかわらぬ閑雅の口調でそうすすめて、にぎやかの万国旗が、さっと脳裡に浮んだが、ばか、大阪へ行く、京都へも行く、奈良へも行く、新緑の吉野へも行く、神戸へ行く、ナイヤガラ・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・その人の脳裡に在るのは、夏目漱石、森鴎外、尾崎紅葉、徳富蘆花、それから、先日文化勲章をもらった幸田露伴。それら文豪以外のひとは問題でないのである。それは、しかし、当然なことなのである。文豪以外は、問題にせぬというその人の態度は、全く正しいの・・・ 太宰治 「困惑の弁」
・・・このたびの戦争で家を失った人たちの大半は、いつか一たびは一家心中という手段を脳裡に浮べたに違いない。「毛布は、よせよ」「ケチだなあ、お前は」 とさらにしつこく、ねばろうとしていた時に、女房はお膳を運んで来た。「やあ、奥さん」・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・しかし彼がその夢見るような眼をして、そういう処をさまよい歩いている間に、どんな活動が彼の脳裡に起っているかという事は誰にも分らない。 勝負事には一切見向かない。蒐集癖も皆無である。学者の中で彼ほど書物の所有に冷淡な人も少ないと云われてい・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
出典:青空文庫