・・・半之丞はこの金を握るが早いか、腕時計を買ったり、背広を拵えたり、「青ペン」のお松と「お」の字町へ行ったり、たちまち豪奢を極め出しました。「青ペン」と言うのは亜鉛屋根に青ペンキを塗った達磨茶屋です。当時は今ほど東京風にならず、軒には糸瓜なども・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・僕はパンをかじりながら、ちょっと腕時計をのぞいてみました。時刻はもう一時二十分過ぎです。が、それよりも驚いたのは何か気味の悪い顔が一つ、円い腕時計の硝子の上へちらりと影を落としたことです。僕は驚いてふり返りました。すると、――僕が河童という・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・中村はそこへはいる前に、ちょっと金の腕時計を眺めた。腕時計の針は幸いにもまだ二時になっていない。存外遅れずにすんだものだ、――中村はこう思ううちにも、ほっとすると言うよりは損をした気もちに近いものを感じた。 爬虫類の標本室はひっそりして・・・ 芥川竜之介 「早春」
・・・ 私は点呼令状と腕時計をかわるがわる見せて、令状には午前七時に出頭すべしとあるが、今はまだ七時前であるという意味のことを述べると、分会長は文句を言うなと奴鳴って、再び拳骨で私の鼻を撲った。あッと思って鼻を押えると、血が吹き出していた。あ・・・ 織田作之助 「髪」
・・・ 翌朝横堀が帰ったあとで、腕時計と百円がなくなっていることに気がついた。それきり顔を見せなくなったが、応召したのか一年ばかりたって中支から突然暑中見舞の葉書が来たことがある。…… そんな不義理をしていたのだが、しかし寒そうに顫えてい・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 豹吉はふと腕時計を見た。十時十分前だ。「まだ十分ある」 豹吉は二人の少年の方へ寄って行くと、「――お前磨け!」 小さい方へ靴を出した。 大きい方の少年はあぶれた顔であった。 片一方磨き終ると、豹吉は、「それ・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・ボオイは、ちらりと腕時計を見て、「もう、十分でございます。」と答えた。 私は、あわてた。何が何やら、わからなかった。鞄から毛糸の頸巻を取り出し、それを頸にぐるぐる巻いて甲板に出て見た。もう船は、少しも動揺していない。エンジンの音も優・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・佐竹は小声でそう呟き、金側の腕時計を余程ながいこと見つめて何か思案しているふうであったが、「日比谷へ新響を聞きに行くんだ。近衛もこのごろは商売上手になったよ。僕の座席のとなりにいつも異人の令嬢が坐るのでねえ。このごろはそれがたのしみさ」言い・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・ 君は、君の腕時計を見て、時刻を報告した。十一時三十分まで、もう三時間くらいしか無い。僕は、君を吉祥寺のスタンドバアに引っぱって行く事を、断念しなければいけなかった。上野から吉祥寺まで、省線で一時間かかる。そうすると、往復だけで既に二時・・・ 太宰治 「未帰還の友に」
・・・ 食堂やあるいは電車の中などで、隣席の人のもっているステッキの種類特にその頭部の装飾を見ると、それに現われたその持ち主の趣味がたいていネクタイとか腕時計とか他の持ち物に反映しているように思われる。しかし神の取り合わせた顔と腕にはそうした・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
出典:青空文庫