・・・そしてぐいと引き廻して、腹の中へ包みを入れた。包みの中には例の襟が這入っているのである。三十九号の立襟である。一ダズン七ルウブルの中の二つである。それから腹の創口をピンで留めて、ハンケチで手を拭いて、その場を立ち退いた。誰もおれを見たものは・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・若返りの博士はからだでする表情をもう少し腹の中へしまい込んだ方がこの映画の俳諧的雰囲気に相応わしいのでないかと思われた。これに比べると金満家と彫刻家とは簡にして要を得ているようである。カメラと焼付けも一体になかなか鮮明で美しいと思われたが、・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(5[#「5」はローマ数字、1-13-25])」
・・・表口では下足番の男がその前から通りがかりの人を見て、入らっしゃい、入らっしゃいと、腹の中から押出すような太い声を出して呼びかけている。わたくしは帳場から火種を貰って来て、楽屋と高座の火鉢に炭火をおこして、出勤する芸人の一人一人楽屋入するのを・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・同時に胃嚢が運動を停止して、雨に逢った鹿皮を天日で乾し堅めたように腹の中が窮窟になる。犬が吠えれば善いと思う。吠えているうちは厭でも、厭な度合が分る。こう静かになっては、どんな厭な事が背後に起りつつあるのか、知らぬ間に醸されつつあるか見当が・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 彼は、細君の大きな腹の中に七人目の子供を見た。 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」
・・・お前の腹の中はまっくろだ。ああくやしい。」 狸は怒って云いました。「やかましい。はやく消化しろ。」 そして狸はポンポコポンポンとはらつづみをうちました。 それから丁度二ヶ月たちました。ある日、狸は自分の家で、例のとおりありが・・・ 宮沢賢治 「蜘蛛となめくじと狸」
・・・ けれ共、どっか、そっ方を見て居たお金が、切った様な瞼を真正面お君の方に向けて、ホヤホヤとした髪をかぶった顔を見つめた時、何か、お腹の中に思って居る事まで、見て仕舞われそうな気持がして、夜着の袖の中で、そっかりと、何のたそくにもならない・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 婆あさんは腹の中で、相変らず吝嗇な人だと思った。この婆あさんの観察した処では、石田に二つの性質がある。一つは吝嗇である。肴は長浜の女が盤台を頭の上に載せて売りに来るのであるが、まだ小鯛を一度しか買わない。野菜が旨いというので、胡瓜や茄・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・丁度、妻の腹の中に潜んでいる死に食物を与えるように。 あるとき、彼は低い声でそっと妻に訊ねてみた。「お前は、死ぬのが、ちょっとも怖くはないのかね。」「ええ。」と妻は答えた。「お前は、もう生きたいとは、ちょっとも思わないのかね・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・己の腹の中で思う事を、あの可哀らしい静かな声が言い現わしているのだな。なんだか不気味な言草だ。そうは思ったが一番しまいに云った一言で、その不気味な処は無くなってしまった。兎に角若い婦人が傍にいるのである。別品かもしれない。この退屈な待つ間を・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
出典:青空文庫