・・・ この言葉はたちまち神父の顔に腹立たしい色を漲らせた。神父は何も知らぬ女の顔へ鋭い眼を見据えると、首を振り振りたしなめ出した。「お気をつけなさい。観音、釈迦八幡、天神、――あなたがたの崇めるのは皆木や石の偶像です。まことの神、まことの天・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・それだけに、一層戦友の言葉は、ちょうど傷痕にでも触れられたような、腹立たしい悲しみを与えたのだった。彼は凍えついた交通路を、獣のように這い続けながら、戦争と云う事を考えたり、死と云う事を考えたりした。が、そう云う考えからは、寸毫の光明も得ら・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・妹が聟養子を迎えると聴いたくらいでやけになる柳吉が、腹立たしいというより、むしろ可哀想で、蝶子の折檻は痴情めいた。隙を見て柳吉は、ヒーヒー声を立てて階下へ降り、逃げまわったあげく、便所の中へ隠れてしまった。さすがにそこまでは追わなかった。階・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・吉田はそのお婆さんからはいつも少し人の好過ぎるやや腹立たしい印象をうけていたのであるが、それはそのお婆さんがまたしても変な笑い顔をしながら近所のおかみさんたちとお喋りをしに出て行っては、弄りものにされている――そんな場面をたびたび見たからだ・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・その度におげんは婆やが毎日まめまめとよく働いてくれることも忘れて、腹立たしい調子になった。彼女はこの医院に来てから最早何程の小遣いを使ったとも、自分でそれを一寸言って見ることも出来なかった。「お前達は、何でも俺が無暗とお金を使いからかす・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・みなさん私のロココ料理をたべて、私の腕前をほめてくれて、私はわびしいやら、腹立たしいやら、泣きたい気持なのだけれど、それでも、努めて、嬉しそうな顔をして見せて、やがて私も御相伴して一緒にごはんを食べたのであるが、今井田さんの奥さんの、しつこ・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・不幸な嫁入り先から戻って来てそのような暮しをしている岡本から見ればふき子も陽子も仕合わせすぎて腹立たしい事もあろう。陽子は、世界が違う気楽な若者と暗闘する岡本の気持がわかるような気がした。 彼等は皆で海岸へ出た。海浜ホテルの前あたりには・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ あれじゃあ、何のために此処を飾ったんだかわけがわからない。 腹立たしい気持ちにもなるけれ共まあ一寸でも見せてやったからと思えば幾分か、あきらめもつく。 彼の人達が来る前よりも私はくしゃくしゃして来た。 飾ったものなんかさっ・・・ 宮本百合子 「秋風」
・・・心あるアメリカの人々、平和を愛するアメリカの女性たちにとって、あんな記事は腹立たしいものだろうと信じます。愛する自分の国の科学力の発達が、人畜を殲滅する能力などという点でほこられるとしたら、それは、よろこびよりも苦痛と恥辱を感じさせるのが自・・・ 宮本百合子 「新しい卒業生の皆さんへ」
・・・世間で偉いと思われている人物とそっくりの顔立ちに生れついているなどという偶然は、ある種の人間にとって、何と皮肉で腹立たしいことだろう。不肖の息子が、顔立ちばかりは卓越していた父親そっくりであるという自然の冷厳なしきうつしとともに。不幸にもキ・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第三巻)」
出典:青空文庫