・・・ 勿体ぶって笠井が護符を押いただき、それで赤坊の腹部を呪文を称えながら撫で廻わすのが唯一の力に思われた。傍にいる人たちも奇蹟の現われるのを待つように笠井のする事を見守っていた。赤坊は力のない哀れな声で泣きつづけた。仁右衛門は腸をむしられ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・、江戸護持院ヶ原の野仏だった地蔵様が、負われて行こう……と朧夜にニコリと笑って申されたを、通りがかった当藩三百石、究竟の勇士が、そのまま中仙道北陸道を負い通いて帰国した、と言伝えて、その負さりたもうた腹部の中窪みな、御丈、丈余の地蔵尊を、古・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・自分は二頭の牝牛を引いて門を出た。腹部まで水に浸されて引出された乳牛は、どうされると思うのか、右往左往と狂い廻る。もとより溝も道路も判らぬのである。たちまち一頭は溝に落ちてますます狂い出す。一頭はひた走りに先に進む。自分は二頭の手綱を採って・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ある日小隊長は腹部に激痛を訴えたので、驚いた婆さんは灸を据えたが、医者は診て、こりゃ盲腸だ、冷やさなくちゃいけないのに温める奴があるかと、散々だった。幸い一命を取りとめ、手術もせずに全快したのは一枝や、千代やそれから千代の隣の水原芳枝という・・・ 織田作之助 「電報」
・・・私は切開した腹部のいたみで、一寸もうごけなかった。そのうちに私は肺をわるくした。意識不明の日がつづいた。医者は責任を持てないと、言っていたと、あとで女房が教えて呉れた。まる一月その外科の病院に寝たきりで、頭をもたげることさえようようであった・・・ 太宰治 「川端康成へ」
・・・よく見ると、そのようにおおらかな、まるで桃太郎のように玲瓏なキリストのからだの、その腹部に、その振り挙げた手の甲に、足に、まっくろい大きい傷口が、ありありと、むざんに描かれて在る。わかる人だけには、わかるであろう。私は、堪えがたい思いであっ・・・ 太宰治 「俗天使」
・・・湯たんぽで腹部を温めた。気が遠くなりかけて、医者を呼んだ。私は蒲団のままで寝台車に乗せられ、阿佐ヶ谷の外科病院に運ばれた。すぐに手術された。盲腸炎である。医者に見せるのが遅かった上に、湯たんぽで温めたのが悪かった。腹膜に膿が流出していて、困・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・また衣服その他で頭をおおい、また腹部を保護するという事は、つまり電気の半導体で馬の身体の一部を被覆して、放電による電流が直接にその局部の肉体に流れるのを防ぐという意味に解釈されて来るのである。 またこういう放電現象が夏期に多い事、および・・・ 寺田寅彦 「怪異考」
・・・出入りのたびごとにその重い腹部をかなりに強く障子にぶっつけた。どうかすると無作法な玉よりもはげしい音を立ててやっとくぐり抜ける事もあった。人間でさえも、ほんの少しばかりいつもより鍔の広い麦藁帽をかぶるともう見当がちがって、いろいろなものにぶ・・・ 寺田寅彦 「子猫」
・・・芝の上にすわり込んで静かに両腕を動かすだけならば私の腹部の病気にはなんのさしつかえもなさそうに思われた。もっとも一概に腕や手を使うだけなら腹にはこたえないという簡単な考えが間違いだという事はすでに経験して知っていた。たとえばタイプライターを・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
出典:青空文庫