・・・そういう間柄でありつつも、飽くまで臆病に飽くまで気の小さな両人は、嘗て一度も有意味に手などを採ったことはなかった。しかるに今日は偶然の事から屡手を採り合うに至った。這辺の一種云うべからざる愉快な感情は経験ある人にして初めて語ることが出来る。・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ 考え深い、また臆病な人たちは、たとえその準備に幾年費やされても十分に用意をしてから、遠い幸福の島に渡ることを相談しました。 それからというものは、みんなは働くことに張り合いを得ました。あるものは、海を渡る船について工夫を凝らしまし・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・「なんでできないことがあるものか、おまえさんたちは臆病なんだ。」と、からすはいいました。「先祖代々から、まだそんな乱暴なことをしたものを聞かない。」と、牛は答えました。「やればできたんだが、みなおまえさんのような弱虫ばかりだ。」・・・ 小川未明 「馬を殺したからす」
・・・ もともと臆病な丹造は、支店長の顔を見るなりぶるぶるふるえていたが、鼻血を見るが早いか、あっと叫んで、小柄の一徳、相手の股をくぐるようにして、跣足のまま逃げてしまい、二日居所をくらましていた……。 ここに到って「真相をあばく」も・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・「純潔な」「臆病な」「気高い」「罪深い」等の倫理的価値もそのものとして先験的に存在するのである。財から抽象されたものでなく、実質的存在を持っている。 次にある価値を実現せしめることが、それ自らには善でも悪でもないというカントの考えは、価・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・そして他の若い無邪気な同窓生から大噐晩成先生などという諢名、それは年齢の相違と年寄じみた態度とから与えられた諢名を、臆病臭い微笑でもって甘受しつつ、平然として独自一個の地歩を占めつつ在学した。実際大噐晩成先生の在学態度は、その同窓間の無邪気・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・「いや、貴族は暗黒をいとうものだ、元来が臆病なんだからね。暗いと、こわくて駄目なんだ。蝋燭が無いかね。蝋燭をつけてくれたら、飲んでもいい。」 キクちゃんは黙って起きた。 そうして、蝋燭に火が点ぜられた。私は、ほっとした。もうこれ・・・ 太宰治 「朝」
・・・生は呼吸器をわるくしたので、これから一箇年、故郷に於いて静養して来るつもりだ、ついては大隅氏の縁談は貴君にたのむより他は無い、先方の御住所は左記のとおりであるから、よろしく聯絡せよ、という事であった。臆病な私には、人の結婚の世話など、おそろ・・・ 太宰治 「佳日」
・・・ 仮りにこれが五拾銭でなくて五拾円か五百円の壷であったら、どうだろうという事を、いささか臆病な心持で考えてみた。理窟は同じでも、実際は少しちがうような気がした。この方だと却って事柄がずっと簡単にはこびそうな気もした。正当不正当の問題が、・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・私は子供の時から人並以上の臆病者であったらしい。しかし私はこの臆病者であったということを今では別に恥辱だとは思っていない。むしろかえってそうであったことが私には幸運であったと思っている。 子供の時分にこの臆病な私の胆玉を脅かしたものの一・・・ 寺田寅彦 「家庭の人へ」
出典:青空文庫