・・・Aの問題は自ら友人である私の態度を要求しました。私は当初彼を冷そうとさえ思いました。少くとも私が彼の心を熱しさせてゆく存在であることを避けようと努めました。問題がそういう風に大きくなればなる程そうしなければならぬと思ったのです。――然しそれ・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・おかしさまた格別なりしかば、ついに『ワッペウさん』の尊号を母上に奉ることと相成り候、祖父様の貞夫をあやしたもう時にも『ワッピョーワッピョー鳩ッぽッぽウ』と調子を取られ候くらい、母上もまたあえて自らワッペウ氏をもって任じおられ候、天保・・・ 国木田独歩 「初孫」
・・・ 私のこの稿は専門の倫理学者になる青年のためではなく、一般に人間教養としての倫理学研究のためであるが、人間の倫理的疑問及びその解決法は人と所と時とによって多様であるように見えても、自ら、きまった、共通なものである。まずその概観を得るがい・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・彼の表情にも、ものごしにも、暗い、何か純粋でないものが自ら現れていた。彼は、それを自覚していた。こういう場合、嫌疑が、すぐ自分にかゝって来ることを彼は即座に、ピリッと感じた。「おかしなことになったぞ。」彼は云った。「この札は、栗島という・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 若崎は話しの流れ方の勢で何だか自分が自分を弁護しなければならぬようになったのを感じたが、貧乏神に執念く取憑かれたあげくが死神にまで憑かれたと自ら思ったほどに浮世の苦酸を嘗めた男であったから、そういう感じが起ると同時にドッコイと踏止まる・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・彼等は単純に死を恐怖して、何処までも之を避けんと悶える者ではない。彼等は自ら明白に意識せると否とは別として、彼等が恐怖の原因は別に在ると思う。 即ち死ちょうことに伴なう諸種の事情である、其二三を挙ぐれば、天寿を全うして死ぬのでなく、即ち・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・北村君のアンビシャスであった事は、自ら病気であると云ったほど、激しい性質のものらしかった。そういう性質はずっと後になっても、眉宇の間に現われていて、或る人々から誤解されたり、余り好かれなかったりしたというのは、そんな点の現われた所であったろ・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・町へ出て飲み屋へ行っても、昔の、宿場のときのままに、軒の低い、油障子を張った汚い家でお酒を頼むと、必ずそこの老主人が自らお燗をつけるのです。五十年間お客にお燗をつけてやったと自慢して居ました。酒がうまいもまずいも、すべてお燗のつけよう一つだ・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・と、自ら慰めるように、跡で独言を言っていたが、色文なんぞではなかった。 ポルジイは非常な決心と抑えた怒とを以て、書きものに従事している。夕食にはいつも外へ出るのだが、今日は従卒に内へ持って来させた。食事の時は、赤葡萄酒を大ぶ飲んで、しま・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・ おれは余りに愛国の情が激発して頭がぐらついたので、そこの塀に寄り掛かって自ら支えた。「これは、あなた、どうなさいましたのですか。御気分でもお悪いのですか。やあ、ロシアの侯爵閣下ではございませんか。」 おれは身を旋らしてその男を・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
出典:青空文庫