・・・ 弟の細君の実家――といっても私の家の分家に当るのだが――お母さん、妹さん、兄さんなど大勢改札口の外で、改った仕度で迎いに出ていてくれた。自動車をやっているので、長兄自身大型の乗合を運転して、昔のままの狭い通りや、空濠の土手の上を通った・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・街道もそこまでは乗合自動車がやって来た。溪もそこまでは――というとすこし比較が可笑しくなるが――鮎が上って来た。そしてその乗合自動車のやって来る起点は、ちょうどまたこの溪の下流のK川が半町ほどの幅になって流れているこの半島の入口の温泉地なの・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・ちょうどそのとき一台の自動車が来かかってブーブーと警笛を鳴らした。吉田は早くからそれに気がついていて、早くこの女もこの話を切り上げたらいいことにと思って道傍へ寄りかけたのであるが、女は自動車の警笛などは全然注意には入らぬらしく、かえって自分・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・ 百姓は、稲を刈り、麦を蒔きながら、自動車をとばし、又は、ぞろ/\群り歩いて行く客を見ている。儲けるのは大阪商船と、宿屋や小商人だけである。寒霞渓がいゝとか「天下の名勝」だとか云って宣伝するのも、主に儲けをする彼等である。百姓には、寒霞・・・ 黒島伝治 「小豆島」
・・・ がた/\の古馬車と、なたまめ煙管をくわえた老馭者は、乗合自動車と、ハイカラな運転手に取ってかわられた。 自動車は、くさい瓦斯を路上に撒いた。そして、路傍に群がって珍らしげに見物している子供達をあとに、次のB村、H村へ走った。・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・ 自動車は昼頃やってきた。俺は窓という窓に鉄棒を張った「護送自動車」を想像していた。ところが、クリーム色に塗ったナッシュという自動車のオープンで、それはふさわしくなくハイカラなものだった。俺は両側を二人の特高に挾さまれて、クッションに腰・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・着いた晩は、お三輪もお力の延べてくれた床に入って、疲れた身体を休めようとしたが、生憎と自動車や荷馬車の音が耳についてよくも眠られなかった。この公園に近い休茶屋の外には一晩中こんな車の音が絶えないのかとお三輪に思われた。 朝になって見ると・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・ にげるについて一ばんじゃまになったのは、いろんなものをはこびかけている、車や馬車や自動車です。多くのところではそれが往来に一ぱいつづきはだかっているので、歩こうにも出ようにもあがきがとれなかったと言います。そんなところでは、ただぎゅう・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・兄は、落ちつき払って、卓上電話を取り上げ、帳場に、自動車を言いつけた。私は、しめた、と思った。 兄は、けれども少しも笑わずに顔をそむけ、立ち上ってドテラを脱ぎ、ひとりで外出の仕度をはじめた。「街へ出て見よう。」「はあ。」ずるい弟・・・ 太宰治 「一燈」
・・・ ホテルに帰ったのは、午前六時であった。自動車のテクサメエトルを見たら五の所に針が行っていた。それをどう云うものだか、ショッフヨオルの先生が十二の所へそっと廻した。なんだか面倒になりそうだから、おれは十五に相当する金をやった。部屋に這入・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
出典:青空文庫