・・・が、その位のことの為に自殺するのは彼の自尊心には痛手だった。彼はピストルを手にしたまま、傲然とこう独り語を言った。――「ナポレオンでも蚤に食われた時は痒いと思ったのに違いないのだ。」 或左傾主義者 彼は最左翼の更に左翼に・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・この疑問は彼の自尊心に多少の不快を感じさせた。けれども父を笑わせたのはとにかく大手柄には違いない。かつまた家中を陽気にしたのもそれ自身甚だ愉快である。保吉はたちまち父と一しょに出来るだけ大声に笑い出した。 すると笑い声の静まった後、父は・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・三日間尾行するよりほかに物一つ言えなかった弱気のために自嘲していた豹一の自尊心は、紀代子からそんな態度に出られて、本来の面目を取り戻した。ここでおどおどしては俺もお終いだと思うと、眼の前がカッと血色に燃えて、「用って何もありません。ただ・・・ 織田作之助 「雨」
・・・寺田はその後姿を見送る元気もなく、自責の想いにしょげかえっていたが、しかしふとあの男のことを想うと、わずかに自尊心の満足はあった。 翌日、小倉競馬場の初日が開かれた。朝からスリ続けていた寺田は、スレばスルほど昂奮して行った。最後の古呼特・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・不良少年はお前だと言われるともはやますます不良になって、何だいと尻を捲くるのがせめてもの自尊心だ。闇に葬るなら葬れと、私は破れかぶれの気持で書き続けて行った。三 あれから五年になると、夏の夜の「ダイス」を想い出しながら、私は・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ そう考えると、――いや、そう考える余裕がこの際残っていたことで、豹吉はわずかに自尊心が慰められた。 けれど、走る足はやはり速かった。…… それから、四時間近くたった頃―― どこをどう歩きまわっていたのか、豹吉は風のように難・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・それは新しいそして私の自尊心を傷つける空想だった。そして私はその空想からますます陰鬱を加えてゆく私の生活を感じたのである。 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・佐吉さんも亦、其の日はいらいらして居る様子で、町の若者達と共に遊びたくても、派手な大浪の浴衣などを着るのは、断然自尊心が許さず、逆に、ことさらにお祭に反撥して、ああ、つまらぬ。今日はお店は休みだ、もう誰にも酒は売ってやらない、とひとりで僻ん・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・人の誠実を到底理解できず、おのれの自尊心を満足させるためには、万骨を枯らして、尚、平然たる姿の二十一歳、自矜の怪物、骨のずいからの虚栄の子、女のひとの久遠の宝石、真珠の塔、二つなく尊い贈りものを、ろくろく見もせず、ぽんと路のかたわらのどぶに・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・あの庭園の私語も、家来たちのひねこびた自尊心を満足させるための、きたない負け惜しみに過ぎなかったのではあるまいか。とすると、慄然とするのだ。殿様は、真実を掴みながら、真実を追い求めて狂ったのだ。殿様は、事実、剣術の名人だったのだ。家来たちは・・・ 太宰治 「水仙」
出典:青空文庫