・・・けれども婆は自若として、まるで蝙蝠の翼のように、耳へ当てた片手を動かしながら、「怒らしゃるまいてや。口が悪いはわしが癖じゃての。」と、まだ半ばせせら笑うように、新蔵の言葉を遮りましたが、それでもようやく調子を改めて、「年はの。」と、仔細らし・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・とばかり戦いて、取去ろうとすると、自若として、「今では誰が見ても可いんです、お心が直りましたら、さあ、将棊をはじめましょう。」 静に放すと、取られていた手がげっそり痩せて、着た服が広くなって、胸もぶわぶわと皺が見えるに、屹と目をみは・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ この看板の前にのみ、洋服が一人、羽織袴が一人、真中に、白襟、空色紋着の、廂髪で痩せこけた女が一人交って、都合三人の木戸番が、自若として控えて、一言も言わず。 ただ、時々……「さあさあ看板に無い処は木曾もあるよ、木曾街道もあるよ・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・渠は先刻にいかにしけん、ひとたびその平生を失せしが、いまやまた自若となりたり。 侯爵は渋面造りて、「貴船、こりゃなんでも姫を連れて来て、見せることじゃの、なんぼでも児のかわいさには我折れよう」 伯爵は頷きて、「これ、綾」・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・ 伝内は自若として、「これ、またあんな無理を謂うだ。蚤にも喰わすことのならねえものを、何として、は、殺せるこんだ。さ駄々を捏ねねえでこちらへござれ。ひどい蚊だがのう。お前様アくわねえか。」「ええ、蚊がくうどころのことじゃないわね・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・ その歩行や、この巡査には一定の法則ありて存するがごとく、晩からず、早からず、着々歩を進めて路を行くに、身体はきっとして立ちて左右に寸毫も傾かず、決然自若たる態度には一種犯すべからざる威厳を備えつ。 制帽の庇の下にものすごく潜める眼・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・ 日蓮はこの危急に際しても自若としていた。彼の法華経のための殉教の気魄は最高潮に達していた。「幸なる哉、法華経のために身を捨てんことよ。臭き頭をはなたれば、沙に金を振替へ、石に玉をあきなへるが如し。」 彼は刑場におもむく前、鎌倉・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・あるときはこの自覚のために驕慢の念を起して、当面の務を怠ったり未来の計を忘れて、落ち付いている割に意気地がなくなる恐れはあるが、成上りものの一生懸命に奮闘する時のように、齷齪とこせつく必要なく鷹揚自若と衆人環視の裡に立って世に処する事の出来・・・ 夏目漱石 「『東洋美術図譜』」
・・・彼の手帳をとり落すほど気を奪われる何ものもなかった。彼の自若性、客観性はテストにかからなかった。それらの国々での社会生活は、彼のもちあわせた判断力を惑乱させるほど豊饒でないから。アメリカでシーモノフは、一個のソヴェト市民とし、一個の社会主義・・・ 宮本百合子 「政治と作家の現実」
・・・ 選挙場に土足でふみこむ吉田首相が、首相として泰然自若と首切りにとりかかりはじめたのは、民自党が第一党になったからです。税に苦しめられ、物価高に苦しめられ、やっと子供を教育しようと思っている母親に、今日の新聞の文相高瀬荘太郎の話はなんと・・・ 宮本百合子 「求め得られる幸福」
出典:青空文庫