・・・ 雫を切ると、雫まで芬と臭う。たとえば貴重なる香水の薫の一滴の散るように、洗えば洗うほど流せば流すほど香が広がる。……二三度、四五度、繰返すうちに、指にも、手にも、果は指環の緑碧紅黄の珠玉の数にも、言いようのない悪臭が蒸れ掛るように思わ・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ 一山に寺々を構えた、その一谷を町口へ出はずれの窮路、陋巷といった細小路で、むれるような湿気のかびの一杯に臭う中に、芬と白檀の薫が立った。小さな仏師の家であった。 一小間硝子を張って、小形の仏龕、塔のうつし、その祖師の像などを並べた・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・殺伐な、無味乾燥な男ばかりの生活と、戦線の不安な空気は、壁に立てかけた銃の銃口から臭う、煙哨の臭いにも、カギ裂きになった、泥がついた兵卒の軍衣にも現れていた。 ボロ/\と、少しずつくずれ落ちそうな灰色の壁には、及川道子と、川崎弘子のプロ・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・「拙が腕をニューと出している所へ古褌を懸けやした――随分臭うげしたよ――……」「狸の癖にいやに贅沢を云うぜ」「肥桶を台にしてぶらりと下がる途端拙はわざと腕をぐにゃりと卸ろしてやりやしたので作蔵君は首を縊り損ってまごまごしておりや・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
出典:青空文庫