自分は、大川端に近い町に生まれた。家を出て椎の若葉におおわれた、黒塀の多い横網の小路をぬけると、すぐあの幅の広い川筋の見渡される、百本杭の河岸へ出るのである。幼い時から、中学を卒業するまで、自分はほとんど毎日のように、あの・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・しかし後には夕明りが、径を挟んだ篠懸の若葉に、うっすりと漂っているだけだった。「御主。守らせ給え!」 彼はこう呟いてから、徐ろに頭をもとへ返した。と、彼の傍には、いつのまにそこへ忍び寄ったか、昨夜の幻に見えた通り、頸に玉を巻いた老人・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・その時庭木の若葉の間に二つの車の幌が見えた。幌は垣の上にゆらめきながら、たちまち目の前を通り過ぎた。「一体十九世紀の前半の作家はバルザックにしろサンドにしろ、後半の作家よりは偉いですね」客は――自分ははっきり覚えている。客は熱心にこう云って・・・ 芥川竜之介 「子供の病気」
・・・遥にそのあたりを思うさえ、端麗なるその御姿の、折からの若葉の中に梢を籠めたる、紫の薄衣かけて見えさせたまう。 地誌を按ずるに、摩耶山は武庫郡六甲山の西南に当りて、雲白く聳えたる峰の名なり。山の蔭に滝谷ありて、布引の滝の源というも風情なる・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・もみじのような手を胸に、弥生の花も見ずに過ぎ、若葉の風のたよりにも艪の声にのみ耳を澄ませば、生憎待たぬ時鳥。鯨の冬の凄じさは、逆巻き寄する海の牙に、涙に氷る枕を砕いて、泣く児を揺るは暴風雨ならずや。 母は腕のなゆる時、父は沖なる暗夜の船・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・第一言い伝えの話が非常に詩的だし、期節はすがすがしい若葉の時だし、拵えようと云い、見た風と云い、素朴の人の心其のままじゃないか。淡泊な味に湯だった笹の香を嗅ぐ心持は何とも云えない愉快だ」「そりゃ東京者の云うことだろう。田舎に生活してる者・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・まだ熱さに苦しむというほどに至らぬ若葉の頃は、物参りには最も愉快な時である。三人一緒になってから、おとよも省作も心の片方に落ちつきを得て、見るものが皆面白くなってきた。おのずから浮き浮きしてきた。目下の満足が楽しく、遠い先の考えなどは無意識・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・柔らかな、香わしい風に吹かれる、若葉のように、うっとりとした時節でありました。たとえ、その光には、嚇々とした夏があり、楽しみの多き、また働き甲斐の多き、雄壮な人生が控えていたとはいえ。自分にとって最も、美しい幻の如く、若やかな、そして熱い血・・・ 小川未明 「机前に空しく過ぐ」
・・・そこには、鋭い無数の刺があって、外からの敵を守ってくれるであろうし、そのやわらかな若葉は卵が孵化して幼虫となったときの食物となるであろうと考えたからでした。 彼女は、子供に対する最後の義務を終えたのでありました。そして、子供らの将来の幸・・・ 小川未明 「冬のちょう」
・・・一度もまだはいって行ってみたことのない村の、黝んだ茅屋根は、若葉の出た果樹や杉の樹間に隠見している。前の杉山では杜鵑や鶯が啼き交わしている。 ふと下の往来を、青い顔して髯や髪の蓬々と延びた、三十前後の乞食のような服装の男が、よさよさと通・・・ 葛西善蔵 「贋物」
出典:青空文庫