・・・きっと病気で苦しみとおしてなくなってしまいますから。ですがあなたこれで二度私をおぶちになりましたよ。」 こう言われて、ギンは、しまったと思いました。もうあと一度になりました。もう一度うっかりぶちでもしたら、女はもうそれきり水の中へかえっ・・・ 鈴木三重吉 「湖水の女」
・・・そのほおえみがまたあわれなおかあさんの心をなぐさめて、今までの苦しみをわすれて第五の門に着くほどの力が出てきました。ここまで来るともう気が確かになりました。なぜというと、向こうには赤い屋根と旗が見えますし、道の両側には白あじさいと野薔薇が恋・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・ 直ぐ又、彼は魚に気を取られて仕舞いましたが、スバーは、傷つけられた牝鹿が、苦しみの中で、「私が、貴方に何をしたでしょう?」と訊きながら狩人の顔を見るように、プラタプの面を見守りました。 其日、彼女はもういつもの木の下には座・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・おれは、おれ自身の苦しみに負けて死ぬのだ。なにも、おまえのために死ぬわけじゃない。私にも、いけないところが、たくさんあったのだ。ひとに頼りすぎた。ひとのちからを過信した。そのことも、また、そのほかの恥ずかしい数々の私の失敗も、私自身、知って・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・ 東京では、夏の暑い盛りに天気のいい日だと夕方涼しい南がかった風が吹くので、瀬戸内海地方のような夕なぎの苦しみを免れている。八月ごろの東京の風の一日じゅうの変化を調べてみると、やはり海陸風に相当する規則正しい風の周期的変化があるが、ただ・・・ 寺田寅彦 「海陸風と夕なぎ」
・・・日本のような貧乏な国ではいかに思想上価値があるからとてもしワグナアの如き楽劇一曲をやや完全に演ぜんなぞと思立たば米や塩にまで重税を課して人民どもに塗炭の苦しみをさせねばならぬような事が起るかも知れぬ。しかしそれはまずそれとして何もそんなに心・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・苦しきに堪えかねて、われとわが頭を抑えたるギニヴィアを打ち守る人の心は、飛ぶ鳥の影の疾きが如くに女の胸にひらめき渡る。苦しみは払い落す蜘蛛の巣と消えて剰すは嬉しき人の情ばかりである。「かくてあらば」と女は危うき間に際どく擦り込む石火の楽みを・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ 私は、実は歩くのが堪えられない苦しみであった。私の左の足は、踝の処で、釘の抜けた蝶番見たいになっていたのだ。「お前は、そんな事を云うから治療費だって貰えないんだぞ。それに俺に食ってかかったって、仕方がないじゃないか、な、ちゃんと嘆・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・或は戸外の業務は内事に比して心労大なり、其成跡も又大なりなど言わんかなれども、夫の病に罹りたるとき妻が看病する其心配苦労は果して大ならざるか、妊娠十箇月の苦しみを経て出産の上、夏の日冬の夜、眠食の時をも得ずして子を育てたる其心労は果して大な・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・それがためにこの二、三日は余の苦しみと、家内の騒ぎと、友人の看護旁訪い来るなどで、病室には一種不穏の徴を示して居る。昨夜も大勢来て居った友人(碧梧桐、鼠骨、左千夫、秀真、節は帰ってしもうて余らの眠りに就たのは一時頃であったが、今朝起きて見る・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
出典:青空文庫