・・・――その苦みも抜けました。貴方は神様です。仏様です。」「いや、これが神様や仏様だと、赤蜻蛉の形をしているのだ。」「おほほ。」「ああ、ほんとに笑ったな――もう可し、決して死ぬんじゃないよ。」「たとい間違っておりましても、貴方の・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・煩悶の内容こそ違え、二葉亭はあの文三と同じように疑いから疑いへ、苦みから苦みへ、悶えから悶えへと絶間なく藻掻き通していた。これが即ち二葉亭の存在であって、長生きしたからって二葉亭の生涯には恐らく「満足」や「安心」や「解決」や「落着」は決して・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・「棄てられたり紛れたりして来たから拾って育ててやるので、犬や猫を飼うのは楽みよりは苦みである。わざわざ求めて飼うもんじゃ決してない、」といっていた。二葉亭の犬や猫に対するや人間の子を愛すると同じ心持であった。六 二葉亭の文章癖・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
一 深川八幡前の小奇麗な鳥屋の二階に、間鴨か何かをジワジワ言わせながら、水昆炉を真中に男女の差向い。男は色の黒い苦み走った、骨組の岩畳な二十七八の若者で、花色裏の盲縞の着物に、同じ盲縞の羽織の襟を洩れて、印・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・石田は苦味走ったいい男で、新内の喉がよく、彼女が銚子を持って廊下を通ると、通せんぼうの手をひろげるような無邪気な所もあり、大宮校長から掛って来た電話を聴いていると、嫉けるぜと言いながら寄って来てくすぐったり、好いたらしい男だと思っている内に・・・ 織田作之助 「世相」
・・・やっぱり鵞鳥で苦みましょうヨ。」と、悲しげにまた何だか怨みっぽく答えた。「そんなに鵞鳥に貼くこともありますまい。」「イヤ、君だってそうでしょうが、題は自然に出て来るもので、それと定まったら、もうわたしには棄てきれませぬ。逃げ道の・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・されど船にて直航せんには嚢中足らずして興薄く、陸にて行かば苦み多からんが興はあるべし。嚢中不足は同じ事なれど、仙台にはその人無くば已まむ在らば我が金を得べき理ある筋あり、かつはいささかにても見聞を広くし経験を得んには陸行にしくなし。ついに決・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・まさかオンバコやスギ菜を取って食わせる訳にもゆかず、せめてスカンポか茅花でも無いかと思っても見当らず、茗荷ぐらいは有りそうなものと思ってもそれも無し、山椒でも有ったら木の芽だけでもよいがと、苦みながら四方を見廻しても何も無かった。八重桜が時・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・一体苦み走りて眼尻にたるみ無く、一の字口の少し大なるもきっと締りたるにかえって男らしく、娘にはいかがなれど浮世の鹹味を嘗めて来た女には好かるべきところある肌合なリ。あたりを片付け鉄瓶に湯も沸らせ、火鉢も拭いてしまいたる女房おとま、片膝立てな・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・苧ごけの中に苧は一杯あるのだが、抽出して宜い糸口が得られぬ苦みである。いや糸口はハッキリして居て、それを引っぱり出しさえすれば埒は明くのだが、それを引出すことは出来なくて、強いて他の糸口、それは無いに定まっている糸口を見出さなくてはならぬの・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
出典:青空文庫