・・・が洋服を着たような満面苦渋の長谷川辰之助先生がこういう意表な隠し芸を持っていようとは学生の誰もが想像しなかったから呆気に取られたのも無理はない。が、「謹厳」のお化のような先生は尾州人という条、江戸の藩邸で江戸の御家人化した父の子と生れた江戸・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・してみれば、子供の泣き声に惹かれるという坂田の詞のうらには、坂田の人生の苦渋が読み取れる筈だと言ってもよかろう。しかも坂田がこの詞を観戦記者に語ったのは、そのような永年の妻子の苦労や坂田自身の棋士としての運命を懸けた一生一代の対局の最中であ・・・ 織田作之助 「勝負師」
・・・毎夜のように彼の坐る窓辺、その誘惑――病鬱や生活の苦渋が鎮められ、ある距りをおいて眺められるものとなる心の不思議が、ここの高い欅の梢にも感じられるのだった。「街では自分は苦しい」 北には加茂の森が赤い鳥居を点じていた。その上に遠い山・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・しかしそれは苦渋や不安や恐怖の感情で一ぱいになった一歩だ。その一歩を敢然と踏み出すためには、われわれは悪魔を呼ばなければならないだろう。裸足で薊を踏んづける! その絶望への情熱がなくてはならないのである。 闇のなかでは、しかし、もしわれ・・・ 梶井基次郎 「闇の絵巻」
・・・初めは恋愛から入って、生活と歳月の移るにしたがって、人生の苦渋にもまれ、鍛えられて、もっと大きな、自由な、地味なしんみの、愛に深まっていく。恋愛よりも、親の愛、腹心の味方の愛、刎頸の友の愛に近いものになる。そして背き去ることのできない、見捨・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・ 光線のたりないその事務室で、正直な某氏は、苦渋の面持ちであった。「それは、もう当然、問題にするべきなんです。しかし……今の理事は――」「どなたから提案なさるということも不可能なんでしょうか」「率直にいって麻痺していますから・・・ 宮本百合子 「ある回想から」
・・・一人の労働者の若者を主人公として、その家庭的苦境と職場での日和見的勢力との苦闘を、当時の一つの階級的現実として描いた作品であった。苦渋な、しかし真摯な作品である。「小祝の一家」が雑誌『文芸』に発表されて程なく、一九三三年十二月二十六日宮・・・ 宮本百合子 「解説(『風知草』)」
・・・ みずから山河巨大な中国に生れ合わした人民の一人として、中国の民衆生活を衷心から愛し、おかれている苦渋の生活を哀惜し、その未来の運命の発展に対して限りない関心をもっている。そのこころが溢れている。ロシア文学史の十八世紀末から十九世紀の間・・・ 宮本百合子 「春桃」
・・・作者自身としては題材のむずかしさ、苦しさに力の限りとっくんでゆく努力に自覚をあつめているうちに、この作家がこれまでかいて来た平明で、まとまりよくおさめられた作に見られなかった苦渋をにじませた。常識と分別、ひとがらのかしこさがくつがえされて、・・・ 宮本百合子 「婦人作家」
・・・とともに境遇的描写の範囲で少年の生活の苦渋を描いている。 二三年前、坪田譲治などの子供の世界を描いた作品が流行したことがあった。が、あの時代の作品でも、稚さから若さに発展しようとする人間の肉体と精神とが、今日の現実のうちに遭遇する種々様・・・ 宮本百合子 「若き精神の成長を描く文学」
出典:青空文庫