・・・ 茶の間へ上って、電気焜炉のスイッチを入れると、横堀は思わずにじり寄って、垢だらけの手をぶるぶるさせながら焜炉にしがみついた。「待てよ、今お茶を淹れてやるから」 家人は奥の間で寝ていた。横堀は蝨をわかせていそうだし、起せば家人が・・・ 織田作之助 「世相」
・・・伯母はもう一汽車前の汽車で来ていて、茶の間で和尚さんと茶を飲んでいた。たった一人残った父の姉なのだが、伯母は二カ月ほど前博覧会見物に上京して、父のどこやら元気の衰えたのを気にしながらも、こう遠くに離れてはお互いに何事があっても往ったり来たり・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・一度は母が泣き顔をしている傍で叔母が涙ぐんでいるのを見ましたが私は別に気にも留めず、ただちょっとこわいような気がしてすぐと茶の間を飛び出したことがありました。 私は七日も十日も泊っていたいのでございますが、長くて四日も経ちますと母が帰ろ・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・一同が茶の間に集まってがやがやと今日の見聞を今一度繰返して話合うのであった。お清は勿論、真蔵も引出されて相槌を打って聞かなければならない。礼ちゃんが新橋の勧工場で大きな人形を強請って困らしたの、電車の中に泥酔者が居て衆人を苦しめたの、真蔵に・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
ガラーリ 格子の開く音がした。茶の間に居た細君は、誰かしらんと思ったらしく、つと立上って物の隙からちょっと窺ったが、それがいつも今頃帰るはずの夫だったと解ると、すぐとそのままに出て、「お帰りなさいまし。」と、ぞ・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
子供らは古い時計のかかった茶の間に集まって、そこにある柱のそばへ各自の背丈を比べに行った。次郎の背の高くなったのにも驚く。家じゅうで、いちばん高い、あの子の頭はもう一寸四分ぐらいで鴨居にまで届きそうに見える。毎年の暮れに、・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ それが茶の間へ袖子を探しに行く時の子供の声だ。「ちゃあちゃん。」 それがまた台所で働いているお初を探す時の子供の声でもあるのだ。金之助さんは、まだよちよちしたおぼつかない足許で、茶の間と台所の間を往ったり来たりして、袖子やお初・・・ 島崎藤村 「伸び支度」
・・・私が茶の間で夕刊を読んでいたら、不意にあなたのお名前が放送せられ、つづいてあなたのお声が。私には、他人の声のような気が致しました。なんという不潔に濁った声でしょう。いやな、お人だと思いました。はっきり、あなたという男を、遠くから批判出来まし・・・ 太宰治 「きりぎりす」
・・・私が学校から帰って来ると、お母さんと、お姉さんと、何か面白そうに台所か、茶の間で話をしている。おやつを貰って、ひとしきり二人に甘えたり、お姉さんに喧嘩ふっかけたり、それからきまって叱られて、外へ飛び出して遠くへ遠くへ自転車乗り。夕方には帰っ・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・そのおなじ日の夕方帰宅して見ると茶の間の真中に一匹の真白な小猫が坐り込んですましてお化粧をしていた。家人に聞いてみると、どこからともなく入り込んで来て、そうして、すっかりわがもの顔に家中を歩き廻っているそうである。それが不思議なことには死ん・・・ 寺田寅彦 「ある探偵事件」
出典:青空文庫