・・・最後の一打ちわずかに響きおわるころ夕煙巷をこめて東の林を離れし月影淡く小川の水に砕けそむれば近きわたりの騎馬隊の兵士が踵に届く長剣を左手にさげて早足に巷を上りゆく、続いて駄馬牽く馬子が鼻歌おもしろく、茶店の娘に声かけられても返事せぬがおかし・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・ 川近くなって、田舎道の辻の或腰掛茶店に立寄った。それは藤の棚の茶店といって、自然に其処にある古い藤の棚、といってさまで大きくもないが、それに店の半分は掩われているので人にそう呼びならされている茶店である。路行く人や農夫や行商や、野菜の・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・ 家を中心にして一生の計画を立てようという人と、先ず屋の外に出てそれから何事か為ようという人と、この二人の友達はやがて公園内の茶店へ入った。涼しい風の来そうなところを択んで、腰を掛けて、相川は洋服の落袋から巻煙草を取り出す。原は黒絽の羽・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・ 昨年、九月、甲州の御坂峠頂上の天下茶屋という茶店の二階を借りて、そこで少しずつ、その仕事をすすめて、どうやら百枚ちかくなって、読みかえしてみても、そんなに悪い出来ではない。あたらしく力を得て、とにかくこれを完成させぬうちは、東京へ帰る・・・ 太宰治 「I can speak」
・・・向うの茶店は、見はらしがよくていいだろうと思うんですけど。」「同じ事だよ。近いほうがいい。」 一ばん近くの汚い茶店にのこのこはいって行って、腰をおろす。「何か、たべたいね。」「そうですね。甘酒かおしるこか。」「何か、たべ・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・――ぼくは直ちに職場に組織を作り、キャップとなり、仕事を終えると、街で上の線と逢い、きっ茶店で、顔をこわばらせて、秘密書類を交換しました。その内、僅か四五カ月。間もなく、プロバカートル事件が起り、逃げてきて転向し、再び経済記者に返った兄の働・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ 向島の長い土手は、花の頃は塵埃と風と雑沓とで行って見ようという気にはなれないが、花が散って、若葉が深くなって、茶店の毛布が際立って赤く見えるころになると、何だか一日の閑を得て、暢気に歩いて見たいような心地がする。 散歩には此頃は好・・・ 田山花袋 「新茶のかおり」
・・・ 池の方へ路の分れる処に茶店がある。そこで茶をのんで餅をつまんでいたら、同宿の若い夫婦連れがあとからはいって来た。腰を下ろしたと思うと御主人が「や、しまった、財布を忘れた」といって懐を撫でまわしている。失礼ではあったが自分たちの盆の餅を・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・街道の並木の松さすがに昔の名残を止むれども道脇の茶店いたずらにあれて鳥毛挟箱の行列見るに由なく、僅かに馬士歌の哀れを止むるのみなるも改まる御代に余命つなぎ得し白髪の媼が囲炉裏のそばに水洟すゝりながら孫玄孫への語り草なるべし。 このあたり・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・野へ入れば往来の人ようやくしげく、ステッキ引きずる書生の群あれば盛装せる御嬢様坊ちゃん方をはじめ、自転車はしらして得意気なる人、動物園の前に大口あいて立つ田舎漢、乗車をすゝむる人力、イラッシャイを叫ぶ茶店の女など並ぶるは管なり。パノラマ館に・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
出典:青空文庫