・・・食卓の上には、昨夜泊った叔母の茶碗も伏せてあった。が、叔母は看護婦が、長い身じまいをすませる間、母の側へその代りに行っているとか云う事だった。 親子は箸を動かしながら、時々短い口を利いた。この一週間ばかりと云うものは、毎日こう云う二人き・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・「はい、その癖ここにさっきから、御茶碗を洗って居りましたんですが――やっぱり人間眼の悪いと申す事は、仕方のないもんでございますね。」 婆さんは水口の腰障子を開けると、暗い外へ小犬を捨てようとした。「まあ御待ち、ちょいと私も抱いて・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ 帳場は妻のさし出す白湯の茶碗を受けはしたがそのまま飲まずに蓆の上に置いた。そしてむずかしい言葉で昨夜の契約書の内容をいい聞かし初めた。小作料は三年ごとに書換えの一反歩二円二十銭である事、滞納には年二割五分の利子を付する事、村税は小作に・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・けれども茶碗を探してそれに水を入れるのは婆やの方が早かった。僕は口惜しくなって婆やにかぶりついた。「水は僕が持ってくんだい。お母さんは僕に水を……」「それどころじゃありませんよ」 と婆やは怒ったような声を出して、僕がかかって行く・・・ 有島武郎 「碁石を呑んだ八っちゃん」
・・・ もう飛ついて、茶碗やら柄杓やら。諸膚を脱いだのもあれば、腋の下まで腕まくりするのがある。 年増のごときは、「さあ、水行水。」 と言うが早いか、瓜の皮を剥くように、ずるりと縁台へ脱いで赤裸々。 黄色な膚も、茶じみたのも、・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ と茶碗に堆く装ったのである。 その時、間の四隅を籠めて、真中処に、のッしりと大胡坐でいたが、足を向うざまに突き出すと、膳はひしゃげたように音もなく覆った。「あれえ、」 と驚いて女房は腰を浮かして遁げさまに、裾を乱して、ハタ・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 母は入れた茶を夫のと娘のと自分のと三つの茶碗についで配り、座についてその話を聞こうとしている。「おとよ、ほかの事ではないがの、お前の縁談の事についてはずれの旦那が来てくれて今帰られたところだ。お前も知ってるだろう、早船の斎藤よ、あ・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ふだん枕元に、スタンドや灰皿や紅茶茶碗や書物、原稿用紙などをごてごてと一杯散らかして、本箱や机や火鉢などに取りかこまれた蒲団のなかに寝る癖のある私には、そのがらんとした枕元の感じが、さびしくてならなかった。にわかに孤独が来た。 旅行鞄か・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・この子どこの子、ソバ屋の継子、上って遊べ、茶碗の欠けで、頭カチンと張ってやろ。こんな唄をわざわざ教えてくれたのはおきみ婆さんで、おきみ婆さんはいつも千日前の常盤座の向いの一名「五割安」という千日堂で買うてくる五厘の飴を私にくれて言うのには、・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・そしてその顔色の悪い子供も黙って、馴れない手つきで茶碗をかきこんでいたのである。彼はそれを見ながら、落魄した男の姿を感じた。その男の子供に対する愛を感じた。そしてその子供が幼い心にも、彼らの諦めなければならない運命のことを知っているような気・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
出典:青空文庫