・・・夜明けの光が森の上に拡がって、露の草原に虫が鳴いている。 草原がいつともなく海に変る。果もない波の原を分けて行く船の舷側にもたれて一人の男が立っている。今太陽の没したばかりの水平線の彼方を眺めている。大きな涙の緒が頬を伝わって落ちる。夕・・・ 寺田寅彦 「ある幻想曲の序」
・・・ライオンが自動車のタイアを草原に見いだして前足でつついてみては腹を立ててうなる場面は傑作である。ライオンがふきげんであればあるほど観客は笑うのである。もしか自分がライオンだったら、この不都合な侵入者らに対してどんなに腹の立つことであろう。・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・彼はむしろ懸崖の中途が陥落して草原の上に伏しかかったような容貌であった。細君は上出来の辣韮のように見受けらるる。今余の案内をしている婆さんはあんぱんのごとく丸るい。余が婆さんの顔を見てなるほど丸いなと思うとき婆さんはまた何年何月何日を誦し出・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・この時庄太郎はふと気がついて、向うを見ると、遥の青草原の尽きる辺から幾万匹か数え切れぬ豚が、群をなして一直線に、この絶壁の上に立っている庄太郎を目懸けて鼻を鳴らしてくる。庄太郎は心から恐縮した。けれども仕方がないから、近寄ってくる豚の鼻頭を・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・こちらの草原にはげんげんが美しゅう咲いて居る。片隅の竹囲いの中には水溜があって鶩が飼うてある。 天神橋を渡ると道端に例の張子細工が何百となくぶら下って居る。大きな亀が盃をくわえた首をふらふらと絶えず振って居る処は最も善く春に適した感じだ・・・ 正岡子規 「車上の春光」
・・・そして草原をぺたぺた歩いて畑にやって参りました、 それから声をうんと細くして、「野鼠さん、野鼠さん。もうし、もうし。」と呼びました。「ツン。」と野鼠は返事をして、ひょこりと蛙の前に出て来ました。そのうすぐろい顔も、もう見えないく・・・ 宮沢賢治 「蛙のゴム靴」
・・・それから兄弟と一緒に峠を下りながら横の方の草原から百合の匂を二人の方へもって行ってやったりした。 どうしたんだろう、急に向うが空いちまった。僕は向うへ行くんだ。さよなら。あしたも又来てごらん。又遭えるかも知れないから。」 風の又三郎・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・ 一望果しなく荒涼とした草原を自動車は疾駆し次第に山腹よりに近づき、ドーモンその他の砲台跡を見物させる。 もう朝夕は霜がおりて末枯れかかったとある叢の中に、夕陽を斜にうけて、金の輪でも落ちているように光るものがあった。そばへよって見・・・ 宮本百合子 「金色の口」
・・・ それを池から間もない所にある娘のうちの垣根にひっかけて仙二はにげる様にもとの草原に来てころがった。 昨日娘が池のふちを歩きながら、藻の花が欲しいと云って居るのを仙二はきいた。「取ってやろうか」その時すぐ思ったけれ共大方はもう花・・・ 宮本百合子 「グースベリーの熟れる頃」
・・・丘は街の三条の直線に押し包まれた円錐形の濃密な草原で、気流に従って草は柔かに曲っていた。彼はこの草の中で光に打たれ、街々の望色から希望を吸い込もうとして動かなかった。 彼は働くことが出来なかった。働くに適した思考力は彼の頭脳を痛めるのだ・・・ 横光利一 「街の底」
出典:青空文庫