・・・ その中庭へ荷馬車が入って来たら蹄の音が高くあたりの鼠色の建物に反響した。 二人の日本女が歩いてるハルトゥリナ通りにしろ、もとのニェフスキー・プロスペクトにしろ、モスクワとは違ってみんな木煉瓦の鋪装である。蹄の音はそこで柔かく、遠く・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
・・・ 数露里行ったところで、はじめて一台の韃靼人の荷馬車をビュッと追い抜いた。幅のせまい、濃い緑、赤黄などで彩色した轎型の轅の間へ耳の立った驢馬をつけ、その轡をとって、風にさからい、背中を丸め、長着の裾を煽られながら白髯の老人がトボトボ進ん・・・ 宮本百合子 「石油の都バクーへ」
・・・ 円たく、パッカード、セダンの硝子扉の中に白粉をつけた娘の頸足が見える。赤い毛糸帽が自転車でとぶ。 荷馬車が二台ヨードをとる海藻をのせて横切る。 男の児が父親に手をひかれて来る 男の児の小さい脚でゴム長靴がゴボゴボと鳴った。・・・ 宮本百合子 「一九二七年春より」
・・・そこも右手はまだ松平の空地つづきで、せまい道幅いっぱいによく荷馬車がとまっていた。私たち子供は一列になって息をころして馬のわきをすりぬけ、すりぬけるや否や駈け出し、やがてとまってあとをふりかえってみた。こわいくせに、そのこわくて大きな馬の後・・・ 宮本百合子 「田端の汽車そのほか」
・・・北海道で、荷馬車のうしろへ口繩をいわいつけた馬にのってアイヌ村を巡った時、私の帯の間にはこの時計が入っていた。 ニューヨークの寄宿舎では豌豆がちの献立であったから腹がすいて困った。その時、デスクの上で何時かしらと眺めるのも、その時計であ・・・ 宮本百合子 「時計」
・・・ 樵夫の鈍い叫声に調子づけるように、泥がブヨブヨの森の端で、重荷に動きかねる木材を積んだ荷馬を、罵ったり苛責したりする鞭の音が鋭く響く。 ト思うと、日光の明るみに戸惑いした梟を捕まえて、倒さまに羽根でぶらさげながら、陽気な若者がどこ・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・ 往還で行き会う荷馬も、大方は、用事をすませれば、町方へ帰るものか、又は、村から村へと行きずりの馬である。 往還から垣もなく、見堺もなく並んで居る低い屋根は勿論「草ぶき」で性悪の烏がらちもなくついばんだり、長い月日の間にいつとはなし・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・ 祖父の家には、荷馬車屋、韃靼人の従卒、軍人と、お喋りで陽気なその細君などが間借りしていて、中庭では年じゅう叫ぶ声、笑う声、駈ける足音が絶えないのであったが、台所の隣りに、窓の二つついた細長い部屋があった。その部屋を借りているのは、痩せ・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・をかげでは嗤って、贋金つくりだの、魔法師だの、背信者だのと噂している。荷馬車屋、韃靼人の従卒、軍人とジャム壺をもって歩いてふるまいながらおしゃべりをすることのすきな陽気なその細君などという下宿人の顔ぶれの中で、この「結構さん」は何という変な・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの発展の特質」
出典:青空文庫