・・・郊外へ出ると麦の緑に菜の花盛りでそら豆も咲いている。百姓屋の庭に、青い服を着て坊主頭に豚の尾をたらした小児が羊を繩でひいて遊んでいる。道ばたにところどころ土饅頭があって、そのそばに煉瓦を三尺ぐらいの高さに長方形に積んだ低い家のような形をした・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・ 入院の翌日A君が菜の花を一束持って来てくれた。適当な花瓶がなかったからしばらく金盥へ入れておいた。室咲きであるせいか、あのひばりの声を思わせるような強い香がなかった。まもなく宅から持って来た花瓶にそれをさして、室のすみの洗面台にのせた・・・ 寺田寅彦 「病室の花」
・・・モーターボートの響を耳にしては、「橋台に菜の花さけり」といわれた渡場を思い出す人はない。かつて八幡宮の裏手から和倉町に臨む油堀のながれには渡場の残っていた事を、わたくしは唯夢のように思返すばかりである。 冬木町の弁天社は新道路の傍に辛く・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・ エレーンは父の後ろに小さき身を隠して、このアストラットに、如何なる風の誘いてか、かく凛々しき壮夫を吹き寄せたると、折々は鶴と瘠せたる老人の肩をすかして、恥かしの睫の下よりランスロットを見る。菜の花、豆の花ならば戯るる術もあろう。偃蹇と・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・春雨やいざよふ月の海半春風や堤長うして家遠し雉打て帰る家路の日は高し玉川に高野の花や流れ去る祇や鑑や髭に落花をひねりけり桜狩美人の腹や減却す出べくとして出ずなりぬ梅の宿菜の花や月は東に日は西に裏門の寺に逢・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・それでその菜の花を鉢植にして、下草にげんげんを植えて、それも写生して見たが、今度は一層骨折ってこまかく書いて見たので、かえって俗になってしもうた。それから後にまた或夜非常に煩悶してしかたのなかった時にふと思いついて枕元にあったオダマキの花の・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・汽車の煙りを見守れる男田舎道乗合馬車の砂煙り たちつゝ行けば黄の霞み立つ赤土に切りたほされし杉の木の 静かにふして淡く打ち笑む白々と小石のみなる河床に 菜の花咲きて春の日の舞ふ水車桜の・・・ 宮本百合子 「旅へ出て」
・・・そしてその桃色地に黄色い菜の花を描いた表紙の本が、いま、わたしたちの前にある。 川端康成氏の序文は、この写生文集の本質をよく語っている。松山くにという少女の素直さ、弾力のある感受性。だが「癩療養所という世間離れのために」「あるいは読書と・・・ 宮本百合子 「病菌とたたかう人々」
・・・ 四月ですわ、十五六日頃じゃあなかったこと、ほら菜の花が真盛りだったじゃあありませんか「……それじゃあ三月末じゃあまだ寒いだろうな、何にしろ随分時候は遅れて居るんだから 茂樹の故郷は、敦賀の近処であった。「だって拘やしないわ。い・・・ 宮本百合子 「われらの家」
出典:青空文庫