・・・さっき窓から落した手紙は、無事に遠藤さんの手へはいったであろうか? あの時往来にいた人影は、確に遠藤さんだと思ったが、もしや人違いではなかったであろうか?――そう思うと妙子は、いても立ってもいられないような気がして来ます。しかし今うっかりそ・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・スコッチの旅行服の襟が首から離れるほど胸を落として、一心不乱に考えごとをしながらも、気ぜわしなくこんな注意をするような父だった。 停車場には農場の監督と、五、六人の年嵩な小作人とが出迎えていた。彼らはいずれも、古手拭と煙草道具と背負い繩・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ 菓子の色、紙の白きさえ、ソレかと見ゆるに、仰げば節穴かと思う明もなく、その上、座敷から、射し入るような、透間は些しもないのであるから、驚いて、ハタと夫人の賜物を落して、その手でじっと眼を蔽うた。 立花は目よりもまず気を判然と持とう・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・若い者の取落したのか、下の帯一筋あったを幸に、それにて牛乳鑵を背負い、三箇のバケツを左手にかかえ右手に牛の鼻綱を取って殿した。自分より一歩先に行く男は始めて牛を牽くという男であったから、幾度か牛を手離してしまう。そのたびに自分は、その牛を捕・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・さッき井戸端へ水を飲みに行った時、落したんだろう」「あの狐に取られんで、まア、よかった」「可哀そうに、そんなことを言って――何という名か、ね?」「吉弥と言います」「帰ったら、礼を言っといておくれ」と、僕は僕の読みかけているメ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・爰で産落されては大変と、強に行李へ入れて押え付けつつ静かに背中から腰を撫ってやると、快い気持そうに漸と落付いて、暫らくしてから一匹産落し、とうとう払暁まで掛って九匹を取上げたと、猫のお産の話を事細やかに説明して、「お産の取上爺となったのは弁・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ やはり、下を向いて歩いていますと、前を歩いているものが、なにか道に落としました。少年は、はっと思って顔を上げますと、先にゆくのはおばあさんでありました。おばあさんは、自分がなにか落としたのも気づかずに、つえをついてゆきかかりましたから・・・ 小川未明 「石をのせた車」
・・・ 私が階子の踏子に一足降りかけた時、ちょうど下から焚落しの入った十能を持って女が上ってきた。二十七八の色の青い小作りの中年増で、髪を櫛巻にしている。昨夜私の隣に寝ていた夫婦者の女房だ。私の顔を見ると、「お早う。」と愛相よく挨拶しながら、・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・とたんに蜘蛛はぴたりと停って、襖に落した影を吸いながら、じっと息を凝らしていた。私はしばらく襖から眼をはなさなかった。なんとなく宿帳を想い出した。 いよいよ眠ることにして、灯を消した。そして、じっと眼をつむっていると、カシオペヤ星座が暗・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・匝れば匝られるものを、恐しさに度を失って、刺々の枝の中へ片足踏込で躁って藻掻いているところを、ヤッと一撃に銃を叩落して、やたら突に銃劔をグサと突刺すと、獣の吼るでもない唸るでもない変な声を出すのを聞捨にして駈出す。味方はワッワッと鬨を作って・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
出典:青空文庫