・・・ たとえば前イギリス皇帝の場合にしても皇位を抛ってまでもの、シンプソン夫人への誠実を賞賛するにおいて私は決して人後に落ちるものではないが、もしかりに前英帝にイギリスの政治的使命についての、文明史的自覚が燃えていたとするならば、それでもそ・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・栗島は、老人の傷口から溢れた血が、汚れた阿片臭い着物にしみて、頭から水をあびせられたように、着物がべと/\になって裾にしたゝり落ちるのを見た。薄藍色の着物が血で、どす黒くなった。血は、いつまでたっても止まらなかった。 血は、老人がはねま・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・四人はウンと踏堪えました。落ちる四人と堪える四人との間で、ロープは力足らずしてプツリと切れて終いました。丁度午後三時のことでありましたが、前の四人は四千尺ばかりの氷雪の処を逆おとしに落下したのです。後の人は其処へ残ったけれども、見る見る自分・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・そしてハンドルを二、三回廻すと、箱の底へ手紙が落ちる音がした。恵子からの手紙の返事はすぐ来た。冒頭に「あなたは遅かった!」そうあった。それによると最近彼女はある男と結婚することに決まっていた。――「犬だって!」犬だって、これじゃあまり惨・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・ そろそろあの榎木の実が落ちる時分でした。二人の兄弟はそれを拾うのを楽みにして、まだあの実が青くて食べられない時分から、早く紅くなれ早く紅くなれと言って待って居ました。 二人の兄弟の家には奉公して働いて居る正直な好いお爺さんがありま・・・ 島崎藤村 「二人の兄弟」
・・・ 池へ山水の落ちるのが幽かに聞える。小母さんはいつしか顔を出してすやすやと眠っている。大根を引くので疲れたのかもしれない。小母さんの静かな寝顔をじっと見ていると、自分もだんだんに瞼が重くなる。 千鳥の話は一と夜明ける。 自分・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・奥さんはまだ一度もその村に行った事はありませんが、島の向こう側で日の落ちる方にあるという事は知っていました。またそこに行く途中には柵で囲まれた六つの農場と、六つの門とがあるという事を、百姓から聞かされていました。 でいよいよ出かけました・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・地獄に落ちるのだからね。 不平を言うな。だまって信じて、ついて行け。オアシスありと、人の言う。ロマンを信じ給え。「共栄」を支持せよ。信ずべき道、他に無し。 甘さを軽蔑する事くらい容易な業は無い。そうして人は、案外、甘さの中に・・・ 太宰治 「かすかな声」
・・・大きな涙の緒が頬を伝わって落ちる。夕映えを受けた帆の色が血のように赤い。 夕映えの雲の形が崩れて金髪の女が現われる。乱れた金髪を双の手に掻き乱して空を仰いだ顔には絶望の色がある。その上に青い星が輝いている。 炉の火が一時にくずれて、・・・ 寺田寅彦 「ある幻想曲の序」
・・・網を張っておいて、鳥を追立て、引かかるが最期網をしめる、陥穽を掘っておいて、その方にじりじり追いやって、落ちるとすぐ蓋をする。彼らは国家のためにするつもりかも知れぬが、天の眼からは正しく謀殺――謀殺だ。それに公開の裁判でもすることか、風紀を・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
出典:青空文庫