・・・が、その拍子に婆さんが、鴉の啼くような声を立てたかと思うと、まるで電気に打たれたように、ピストルは手から落ちてしまいました。これには勇み立った遠藤も、さすがに胆をひしがれたのでしょう、ちょいとの間は不思議そうに、あたりを見廻していましたが、・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・シリベシ川の川瀬の昔に揺られて、いたどりの広葉が風もないのに、かさこそと草の中に落ちた。 五、六丁線路を伝って、ちょっとした切崕を上がるとそこは農場の構えの中になっていた。まだ収穫を終わらない大豆畑すらも、枯れた株だけが立ち続いていた。・・・ 有島武郎 「親子」
・・・目に見えない湿気が上からちぎれて落ちて来る。人道の敷瓦や、高架鉄道の礎や、家の壁や、看板なんぞは湿っている。都会がもう目を醒ます。そこにもここにも、寒そうにいじけた、寐の足りないらしい人が人道を馳せ違っている。高架鉄道を汽車がはためいて過ぎ・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ ぴんと跳ね上がって、ばたりと落ちて死ぬる。 単純な、平穏な死である。踊ることをも忘れて、ついと行ってしまうのである。「おやまあ」と貴夫人が云った。 それでも褐色を帯びた、ブロンドな髪の、残酷な小娘の顔には深い美と未来の霊と・・・ 著:アルテンベルクペーター 訳:森鴎外 「釣」
・・・木の上では睡った鳥の重りで枯枝の落ちる音がする。近い街道では車が軋る。中には重荷を積んだ車のやや劇しい響をさせるのもある。犬の身の辺には新らしいチャンの匂いがする。 この別荘に来た人たちは皆好い人であった。その好い人が町を離れて此処で清・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・郷里に帰るということと結婚という事件とともに、何の財産なき一家の糊口の責任というものが一時に私の上に落ちてきた。そうして私は、その変動に対して何の方針もきめることができなかった。およそその後今日までに私の享けた苦痛というものは、すべての空想・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・と、いってすッと立つ、汽車の中からそのままの下じめがゆるんだか、絹足袋の先へ長襦袢、右の褄がぞろりと落ちた。「お手水。」「いいえ、寝るの。」「はッ。」と、いうと、腰を上げざまに襖を一枚、直ぐに縁側へ辷って出ると、呼吸を凝して二人・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・豪雨だ……そのすさまじき豪雨の音、そうしてあらゆる方面に落ち激つ水の音、ひたすら事なかれと祈る人の心を、有る限りの音声をもって脅すかのごとく、豪雨は夜を徹して鳴り通した。 少しも眠れなかったごとく思われたけれど、一睡の夢の間にも、豪雨の・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・何のことはない、野砲、速射砲の破裂と光弾の光とがつづけざまにやって来るんやもの、かみ鳴りと稲妻とが一時に落ちる様や、僕等は、もう、夢中やった。午後九時頃には、わが聨隊の兵は全く乱れてしもて、各々その中隊にはおらなかった。心易いものと心易いも・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ 然るに六十何人の大家族を抱えた榎本は、表面は贅沢に暮していても内証は苦しかったと見え、その頃は長袖から町家へ縁組する例は滅多になかったが、家柄よりは身代を見込んで笑名に札が落ちた。商売運の目出たい笑名は女運にも果報があって、老の漸く来・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
出典:青空文庫