・・・自分はとうとう落着きを失い、「そんなことを聞いている時間はない。帰って貰おう」と怒鳴りつけた。青年はまだ不服そうに、「じゃ電車賃だけ下さい。五十銭貰えば好いんです」などと、さもしいことを並べていた。が、その手も利かないのを見ると、手荒に玄関・・・ 芥川竜之介 「子供の病気」
・・・幸いにそれでも彼の心は次第に落着きを取り戻しはじめた。同時にまた次第に粟野さんの好意を無にした気の毒さを感じはじめた。粟野さんは十円札を返されるよりも、むしろ欣然と受け取られることを満足に思ったのに違いない。それを突き返したのは失礼である。・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・が、彼女の心もちは何か落ち着きを失っていた。彼女の前にあった新聞は花盛りの上野の写真を入れていた。彼女はぼんやりこの写真を見ながら、もう一度番茶を飲もうとした。すると番茶はいつの間にか雲母に似たあぶらを浮かせていた。しかもそれは気のせいか、・・・ 芥川竜之介 「たね子の憂鬱」
・・・しかし待ち遠しそうに二人からのぞき込まれているという意識は、彼の心の落ち着きを狂わせて、ややともすると簡単な九々すらが頭に浮かび上がって来なかった。「そこは七じゃなかろうが、四だろうが」 父はこんな差出口をしていたが、その言葉がだん・・・ 有島武郎 「親子」
・・・与十の妻は犬に出遇った猫のような敵意と落着きを以て彼れを見た。そして見つめたままで黙っていた。 仁右衛門は脂のつまった大きな眼を手の甲で子供らしくこすりながら、「俺らあすこの小屋さ来たもんだのし。乞食ではねえだよ」といってにこに・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 私の目前の落ち着きどころはひっきょうこれにすぎない。ここに至って私は反省してみる。私のこの態度は、全く第三階級に寄与するところがないだろうか。私がなんらかの意味で第三階級の崩壊を助けているとすれば、それは取りもなおさず、第四階級に何者・・・ 有島武郎 「想片」
・・・そのいたく落ち着きたる、これを頼もしと謂わば謂え、伯爵夫人の爾き容体を見たる予が眼よりはむしろ心憎きばかりなりしなり。 おりからしとやかに戸を排して、静かにここに入り来たれるは、先刻に廊下にて行き逢いたりし三人の腰元の中に、ひときわ目立・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・冷々然として落着き澄まして、咳さえ高うはせず、そのニコチンの害を説いて、一吸の巻莨から生ずる多量の沈澱物をもって混濁した、恐るべき液体をアセチリンの蒼光に翳して、屹と試験管を示す時のごときは、何某の教授が理化学の講座へ立揚ったごとく、風采四・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・――眉を落して、形をかえて、貴方の奥さまになって隠れていましても、人出入の激しい旅館では、ちっとも心が落着きませんから、こうして道に迷っております。どうぞ、御堪忍なすって下さいまし。……夢にも悪戯ではないのですから。画家 いたし方があり・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・語りに来たにしては、妙にソワソワと落ち着きがない。綿のはみ出た頭巾の端には「大阪府南河内郡林田村第十二組、楢橋廉吉A型、勤務先大阪府南河内郡林田村林田国民学校」と達筆だが、律義そうなその楷書の字が薄給で七人の家族を養っているというこの老訓導・・・ 織田作之助 「世相」
出典:青空文庫