・・・酢っぱくって渋くって泡の立つ葡萄酒のような、コクの強い、野蕃な海なんだ。波のしぶきが降って来る。腹を刔るような海藻の匂いがする。そのプツプツした空気、野獣のような匂い、大気へというよりも海へ射し込んで来るような明らかな光線――ああ今僕はとう・・・ 梶井基次郎 「海 断片」
・・・「寧ろこの使用い古るした葡萄のような眼球をり出したいのが僕の願です!」と岡本は思わず卓を打った。「愉快々々!」と近藤は思わず声を揚げた。「オルムスの大会で王侯の威武に屈しなかったルーテルの胆は喰いたく思わない、彼が十九歳の時学友・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・同十四日――「今朝大雪、葡萄棚堕ちぬ。 夜更けぬ。梢をわたる風の音遠く聞こゆ、ああこれ武蔵野の林より林をわたる冬の夜寒の凩なるかな。雪どけの滴声軒をめぐる」同二十日――「美しき朝。空は片雲なく、地は霜柱白銀のごとくきらめく。小鳥・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・湯場は新開の畠に続いて、硝子窓の外に葡萄棚の釣ったのが見えた。青黒く透明な鉱泉からは薄い湯気が立っていた。先生は自然と出て来る楽しい溜息を制えきれないという風に、心地の好い沸かし湯の中へ身を浸しながら、久し振で一緒に成った高瀬を眺めたり、田・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ 食事の済む頃に、婆さんは香ばしく入れた茶と、干葡萄を小皿に盛って持って来て、食卓の上に置いた。それを主人に勧めながら、お針に来ている婦の置いて行ったという話をした。「あの人がそう申しますんですよ。是方の旦那様も奥様を探して被入・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・それですぐにそのドモクレスを呼んで、さまざまの珍らしいきれいな花や、香料や、音楽をそなえた、それはそれは、立派なお部屋にとおし、出来るかぎりのおいしいお料理や、価のたかい葡萄酒を出して、力いっぱい御馳走をしました。 ドモクレスは大喜びを・・・ 鈴木三重吉 「デイモンとピシアス」
・・・三兄は、決してそのお仲間に加わらず、知らんふりして自分の席に坐って、凝ったグラスに葡萄酒をひとりで注いで颯っと呑みほし、それから大急ぎでごはんをすまして、ごゆっくり、と真面目にお辞儀して、もう掻き消すように、いなくなってしまいます。とても、・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・とうとうその苦心の外套をも廃止して、中学時代からのボロボロのマントを、頭からすっぽりかぶって、喫茶店へ葡萄酒飲みに出かけたりするようになりました。 喫茶店で、葡萄酒飲んでいるうちは、よかったのですが、そのうちに割烹店へ、のこのこはいって・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
・・・食事の時は、赤葡萄酒を大ぶ飲んで、しまいにコニャックを一杯飲んだ。 翌日まだ書いている。前日より一層劇しい怒を以て、書いている。いやな事と云うものは、する時間が長引くだけいやになるからである。午頃になって、一寸町へ出た。何か少し食って、・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・N君からはまた浅間葡萄という高山植物にも紹介された。われわれの「葡萄」に比べると、やはり、きりっと引きしまった美しい姿をしている。強い紫外線と烈しい低温とに鍛練された高山植物にはどれを見ても小気味のよい緊張の姿がある。これに比べると低地の草・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
出典:青空文庫