雨を含んだ風がさっと吹いて、磯の香が満ちている――今日は二時頃から、ずッぷりと、一降り降ったあとだから、この雲の累った空合では、季節で蒸暑かりそうな処を、身に沁みるほどに薄寒い。…… 木の葉をこぼれる雫も冷い。……糠雨がまだ降って・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
舞子の停車場に下りた時は夕暮方で、松の木に薄寒い風があった。誰も、下りたものがなかった。松の木の下を通って、右を見ても、左も見ても、賑かな通りもなければ、人の群っているのも目に入らない。海は程近くあるということだけが、空の色、松風の音・・・ 小川未明 「舞子より須磨へ」
・・・所へ意気揚々と出しゃばるのは、自分なぞが先に立ってやらずとも、成功主義の物欲しい世の中には、そういう処へ出しゃばって歯の浮くような事をいいたがる連中が、あり余って困るほどある事を思返すと、先生はむしろ薄寒い妾宅の置炬燵にかじりついているのが・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・しかし深川の大通りは相変らず日あたりが悪く、妙にこの土地ばかり薄寒いような気がして、市中は風もなかったのに、此処では松かざりの竹の葉がざわざわいって動いている。よく見覚えのある深川座の幟がたった一本淋し気に、昔の通り、横町の曲角に立っていた・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・もう秋の末で薄寒い頃に袷に襦袢で震えて居るのに、どうしたかいくら口をかけてもお前は来てくれず、夜はしみじみと更ける寒さは増す、独りグイ飲みのやけ酒という気味で、もう帰ろうと思ってるとお前が丁度やって来たから狸寝入でそこにころがって居ると、オ・・・ 正岡子規 「墓」
・・・朝は薄寒いようで、賑やかでも引緊った空気は、昇る太陽につれて膨み機嫌よくなって来る。手に触り体が触れるあらゆる建物の部分は、幸福に乾いてぽかぽかしている。見えない運動場の隅から響いて来るときの声、すぐ目の前で、「おーひとおぬけ、おーふた・・・ 宮本百合子 「思い出すかずかず」
出典:青空文庫