・・・ その日は照り続いた八月の日盛りの事で、限りもなく晴渡った青空の藍色は滴り落つるが如くに濃く、乾いて汚れた倉の屋根の上に高く広がっていた。横町は真直なようでも不規則に迂曲っていて、片側に続いた倉庫の戸口からは何れも裏手の桟橋から下る堀割・・・ 永井荷風 「夏の町」
木の葉の間から高い窓が見えて、その窓の隅からケーベル先生の頭が見えた。傍から濃い藍色の煙が立った。先生は煙草を呑んでいるなと余は安倍君に云った。 この前ここを通ったのはいつだか忘れてしまったが、今日見るとわずかの間にもうだいぶ様子・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生」
・・・ さて雲のみねは全くくずれ、あたりは藍色になりました。そこでベン蛙とブン蛙とは、「さよならね。」と云ってカン蛙とわかれ、林の下の堰を勇ましく泳いで自分のうちに帰って行きました。 * あとでカン蛙は腕を組・・・ 宮沢賢治 「蛙のゴム靴」
・・・赤い封蝋細工のほおの木の芽が、風に吹かれてピッカリピッカリと光り、林の中の雪には藍色の木の影がいちめん網になって落ちて日光のあたる所には銀の百合が咲いたように見えました。 すると子狐紺三郎が云いました。「鹿の子もよびましょうか。鹿の・・・ 宮沢賢治 「雪渡り」
・・・露台の硝子越しに見える松の並木、その梢の間に閃いている遠い海面の濃い狭い藍色。きのう雪が降ったのが今日は燦らかに晴れているから、幅広い日光と一緒に、潮の香が炉辺まで来そうだ。光りを背に受けて、露台の籐椅子にくつろいだ装で母がいる。彼女は不機・・・ 宮本百合子 「海浜一日」
・・・重く寒い暗藍色の東空に、低く紅の横雲の現れたのが、下枝だけ影絵のように細かく黒くちらつかせる檜葉の葉ごしに眺められた。閉め切った硝子戸の中はまだ夜だ。壮重な夜あけを凝っと見て居ると、何処かで一声高らかに鶯が囀った。ホーと朗らかに引っぱり、ホ・・・ 宮本百合子 「木蔭の椽」
・・・フランス藍色の彼の服は襟がすり切れた。アフガニスタンからアマヌラハンが逃げる前 月六百留で医師を招聘して来た。残念なことに彼にはその時まだディプロマがなかった。―― 独逸の女子共産党員――がСССР女性生活について書いたものが 文芸戦線・・・ 宮本百合子 「一九二九年一月――二月」
十月の澄んだ秋の日に、北部太平洋が濃い藍色に燦いた。波の音は聴えない。つめたそうに冴え冴え遠い海面迄輝いている。船舶の太い細い煙筒が玩具のように鮮かにくっきり水平線に立っていた。 空には雲もなく、四辺は森としている。何・・・ 宮本百合子 「翔び去る印象」
・・・フランツが二度目に出掛けた頃には、巓という巓が、藍色に晴れ渡った空にはっきりと画かれていた。そして断崖になって、山の骨のむき出されているあたりは、紫を帯びた紅ににおうのである。 フランツが例の岩の処に近づくと、忽ち木精の声が賑やかに聞え・・・ 森鴎外 「木精」
・・・ これもお揃の、藍色の勝った湯帷子の袖が翻る。足に穿いているのも、お揃の、赤い端緒の草履である。「わたし一番よ」「あら。ずるいわ」 先を争うて泉の傍に寄る。七人である。 年は皆十一二位に見える。きょうだいにしては、余り粒・・・ 森鴎外 「杯」
出典:青空文庫