・・・ この頃に至って、私は、ようやく虚名からも、また利欲からも、心を煩わされなくなりました。たゞ、自分の理想に生きるということ、正義のために戦わなければならぬということ、そして、要するに、人間は、いかなる職業にあっても、その心がけが、社会の・・・ 小川未明 「机前に空しく過ぐ」
・・・なぜなら、人生のための芸術でなくて、事実虚名のためであり、虚栄のためであるからです。しからざれば、自己享楽の所産なりと言うを憚らぬからです。「人生を語る」という言葉は詩的に、センチメンタルに聞えるかも知れないが、民衆の利福を祈念するため・・・ 小川未明 「自分を鞭打つ感激より」
・・・ 春になって、花が咲いても、初夏が至って、新緑に天地はつゝまれても、心から、自然を味い、また、愛する余裕を持たず、その慈愛心もなく、いたずらに、虚名につながれている輩の如き、いかに卑しいことか。私は、いまにして、生活の意義を考えるのであ・・・ 小川未明 「自由なる空想」
・・・ 夜烏子は山の手の町に居住している人たちが、意義なき体面に累わされ、虚名のために齷齪しているのに比して、裏長屋に棲息している貧民の生活が遥に廉潔で、また自由である事をよろこび、病余失意の一生をここに隠してしまったのである。或日一家を携え・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・然るに、幸にも『深川の唄』といい『すみだ川』というが如き小作を公にするに及んで、忽江戸趣味の鼓吹者と目せられ、以後二十余年の今日に至ってなお虚名を贏ち得ている。文壇の僥倖児といわれるのは、けだし正宗君の言を俟つに及ぶまい。 大正改元の翌・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
・・・そこで世間で我虚名を伝うると与に、門外の見は作と評との別をさえ模糊たらしめて、他は小説家だということになった。何故に予は小説家であるか。予が書いたものの中に小説というようなものは、僅に四つ程あって、それが皆極の短篇で、三四枚のものから二十枚・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・それでも演説者のまわりに何か迷信の靄がかかっていれば、多くの宗教家や政治演説家がそうであるように、内容の貧弱な言葉をもってしても何かの印象を与え得るであろうが、父にはそういう迷信を刺戟すべきなんらの虚名もない。そこでただ新聞から得た知識で政・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
・・・生の意義への焦燥と見えたのは、虚名と喝采とへの焦燥に過ぎなかった。勇ましい戦士と見えたのは、強剛な意志を欠く所に生ずるだだッ児らしいわがままのゆえに過ぎなかった。私はその時までその臭気に気づかないでいた自分を呪った。道徳的には潔癖であるとさ・・・ 和辻哲郎 「転向」
出典:青空文庫